人々が心に抱くモノ:世代によって異なるが「明日への希望」「未来を見つめる塔」である。建設当時も、50年以上の時を積み重ねてきたモノだけが醸し出す空気感をもつ今も、そして東京タワーが存在し続ける限り、人々が東京タワーに重ねる想いは変わらないと思われる。
つづきを読む
江戸の人々がいたるところで富士山の姿を眼にしながら毎日を生きていた頃のように、東京タワーが建設されてからしばらくの間は、今と違って東京の空は広かった。東京に暮らす人々は、東京タワーの姿とともに日々を送っていた。その頃を知る年配者にとって、ふと自分のこれまでの道のりを振り返るときに、東京タワーは「友人」のような存在である。彼らにとっての東京タワーは、“3丁目の夕日”とともにある。
若い世代が東京タワーに感じるコトにも同じ言葉があてはまる。実例としては、彼らの口から「東京タワーを見つけると得をした気持ちになる」と聞くことが多く、彼らの間には“ライトダウン伝説”が共有されていることがあげられる。
東京タワーを作り上げた人々・今日まで守り続けてきた人々の誇りとこだわり、日本各地から訪れた人々の憧れ、都会暮らしの孤独を「癒し」てくれる友のように東京タワーに語りかける人々・・・すべての東京タワーに愛着を感じる人々の想いを受けとめてきた50年が、東京タワーを単なる電波塔ではない存在にしている、無意識ながら、そう感じている人は多い。
周囲に高層ビルが無数に立ち並ぶようになった現在の東京で、日本らしい仄かな灯を放ちながら、ふと空を見あげる人々の「希望」と「未来」を照らし続けている東京タワーは「変わるモノがない」「唯一無二」という点では、富士山(不二山とも書く)に並ぶ存在である。アニメや特撮映画の分野でも人気抜群であることは言うまでもない。
概要:正式名称を「日本電波塔」とする風説があるが、「東京タワー」が正式名称である。長らく世界一高い自立式電波塔の座にあった、日本・東京を象徴する建造物のひとつ。333mの高さを誇り、美しい末広がりのシルエットを描く鉄骨構造は、機能美・建築美の観点においても高く評価されている。地震国・日本で発達した耐震構造理論を駆使した設計、日本のものづくりを担う、鳶をはじめとする多くの職人の手仕事が注ぎ込まれ、日々、世界中から多くの来訪者を迎えている。
つづきを読む
「インターナショナルオレンジ」呼ばれるオレンジ色の一種と日本を象徴する色のひとつ「白」の2色で彩られ、夜には季節によって異なる色合いで灯りを放ち、国民的な催しの際には特別なライトアップが施されることで知られる(最近の例ではオリンピック招致やサッカーワールドカップ)。また、建築物のライトアップの分野でも先駆けであり、ライトアップされた建造物に「美」を感じ、それぞれの「想い」を託す習慣を日本人に根付かせたと言っても過言ではない。
600年以上にわたってこの街のランドマークのひとつであり、浮世絵にも描かれるほどの観光地でもあった増上寺(現在よりもはるかに広大な敷地を持っていた)の背後に立ち、海外や日本各地からのツアー旅行、修学旅行のコースに組み込まれることも多い。東京のあちこちに東京タワーが美しく見える名所があるが、バイク乗りであれば、首都高の内環を走りながら間近に見る東京タワーを筆頭にあげるに違いない(外回りでも内回りでも可能。夜がおススメである)。
歴史:この一帯は4~5世紀には古墳のある聖なる地であった(今も芝公園内に現存する)。14世紀には、後に徳川将軍家の菩提寺となる増上寺が開かれ、江戸の裏鬼門を守る要所として機能した。明治時代には、よく知られている「鹿鳴館」より以前に、勝海舟も通ったと言われる社交クラブ「紅葉館」がこの地に作られた。昭和に入り、戦後の復興が進んで日本が明日への希望を取り戻し始めた1957年(昭和32年)、元旦の新聞に掲載された寄稿文「新年の夢」が発端となって「総合電波塔」の議論が高まり、5月には日本電波塔株式会社が発足、その翌月に東京タワーの建設が始まった。
つづきを読む
建設中の1958年10月には、公募案の中から「東京タワー」の名称が決まり、未知の領域ばかりで、地震や台風に見舞われる日本の、その都心部に世界一(当時)の電波塔を作る、という厳しい条件にもかかわらず、着工からわずか一年半の1958年12月23日に完工式を迎えた。工事の模様を取材したアメリカのNBC放送は「勤勉な日本人でなくてはできない仕事」と評した。
それから50有余年、東京タワーは世界一の高さを誇る自立式電波塔としてその役割を果たし続けると同時に、東京の象徴、なくてはならないランドマークとなっていった。1989年には外部照明を一新、日本の都市照明の新時代の先駆けとなった。
2010年に東京スカイツリーに「世界一高い自立式電波塔」の座を譲り、2011年3月の東日本大震災の際には先端のアンテナ部が曲がる被害を受けたが、わずか一週間後には営業を再開している。建設当初から変わらぬ「明日への希望」の象徴として、人気は高まるばかりである。