通称:富士(ふじ)
人々が心に抱くモノ:日本人であろうがなかろうが「日本」を象徴する山である。海外で日本が紹介されているガイドブックを見ても、ウィキペディアで富士山のページの言語の多さを見ても一目瞭然である。日本人に「山の絵を描いてください」と言えば、富士山の裾広がりのシルエットを描く人が大半であり、「富士山が描かれた絵をあげてください」と尋ねれば、世界的にも知られ、印象派に多大な影響を与えた浮世絵の数々が返ってくるはずである。
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人々が富士山から連想するものには「清水」もあげられる。富士の周辺は湧水の宝庫であり、寿司をはじめ、和食に欠かせない日本原産の香辛料「山葵(ワサビ)」の栽培も盛んである。
全国的にもそうだが、江戸、そして東京の住人にとっては特に、富士山は「拝むモノ」であり「霊峰」である。海外では、日本社会の美点・文化の特徴として宗教(信仰)に対する寛容さをあげる人が多い(そして、日本人の多くはそんなことを意識したこともない)が、その背景にある日本古来の自然信仰、人智を超えたモノを受け入れ、共存をはかる考え方のひとつの表れと言える。
かつて街中に点在していた銭湯のペンキ絵の題材でも、富士山は断トツの1位であった。家族や顔見知りとともに日々の疲れを洗い流し、くつろぐ場には、富士山が最もふさわしいとされていたのである。また、初夢に見ると縁起がいいモノを表すことわざ「一富士二鷹三茄子(いちふじにたかさんなすび)」にも、日本人の富士山に対する想いが表れている。
また、東京には古くから「富士見坂」と呼ばれる坂がいくつもある。高層ビルが立ち並ぶ現代は、その多くは名ばかりになってしまっているが、首都高や鉄道の高架線から空が澄みわたった早朝や日没の頃に見えた富士山に「えっ!こんなに大きかったけっ??」と驚いた経験を持つ人は少なくない。彼らは海外の人々に衝撃を与え、熱狂的なファンを生んだ浮世絵、そこに描かれた独特の遠近感による富士山が、あながち誇張ではないことを知っている。
概要:「富士山」の語源については、日本語(これ自体が言語学の分野でその所属や系統が定まっておらず、孤立した言語とすることですら論争の対象である)ではなく、海外の言葉に由来するという説も含め、諸説あるが不明である。古い文献には「不二」「不尽」の字をあてたものもあり、縁起を担いで「不死」をあてる人もいる。日本の最高峰で高さ3,776m。ちなみに、小学校で唱歌とともに「みななろ(見習おう)」で教えられるため、富士山の高さを答えられない人は珍しい。
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休火山と思われていることが多いが、活火山であり、最近の噴火は江戸の街に数cmの火山灰が積もったと伝えられている宝永大噴火である。国立公園に指定され、文化庁の史跡名勝天然記念物であり、世界文化遺産でもある。
富士山の山頂は県境が未確定で、静岡県でも山梨県でもない。また、山頂(正確には8合目以上)は全国に点在する浅間(せんげん)神社の総本山である富士山本宮浅間大社の奥宮、つまり神社の境内である。登頂ルートは、有名なものでは登山者数の多い順に「吉田ルート」「富士宮ルート」「須走ルート」「御殿場ルート」の4つがあるが、その他にも多くの古道があり、その多くは修験者が切り拓いたものと言われている。
富士山を撮った写真では、「赤富士」「紅富士」「ダイヤモンド富士」「逆さ富士」「影富士」「笠雲」などが代表的なものである。またご当地ナンバーにも「富士山」がある。
歴史:富士山は古来、噴火を重ねて今の美しい姿を成したことが明らかになっている。なかでも三大噴火とされているのは、平安時代(9世紀)の「延暦大噴火」と「貞観大噴火」、江戸時代(18世紀)の「宝永大噴火」である。
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富士信仰の歴史では、文献による伝承では富士山本宮浅間大社の起源は二千年以上前となっている。庶民の間の富士信仰としては「富士講」があり、登山の大衆化が進んだ江戸時代後期には「江戸八百八講、講中八万人」と言われるほどの興隆を見せた。しかし、大衆化が進んだと言っても、実際に富士山を登ることができたのは一部の人間であり、それ以外の大半の人々のために、富士山を模した「富士塚」が各地に作られ、その一部は今も現存している。
1964年(昭和39年)の富士スバルラインの開通によって、富士山の観光地化が進み、ここ10年ほどは、登山が一般に解放されている7月から9月の間は、世界中のさまざまな言語を耳にする場所になっている。