通称:二子玉(ニコタマ)・二子(フタコ)
人々が心に抱くモノ:都心に足を伸ばさなくても、豊富な品揃えを楽しむことができるショッピングセンターを中心にした繁華街があり、その周辺には閑静な住宅地、そして、緩やかな流れの多摩川の河川敷では、手軽にスポーツやバーベキューが楽しめる。「郊外型ライフスタイルを絵に描いたような街」それが一般的な二子玉川のイメージである。
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オリンピック道路とも呼ばれた246や東急田園都市線(渋谷・その先の都心部とつながること・文字面が連想させる情景・言葉の響き)もそのイメージを助長した。良くも悪くも、旧来の文脈・土着のモノから解放され、何か新しいコトが始まる・・・そんな時代の空気が漂い、しかも都心や田舎のように、クセが強いわけでもない。そこに惹かれる人々が集まり続けて半世紀になろうとする“ニコタマ”には、独特のニュアンスが漂っている。
歴史をほんの半世紀も遡れば、全く異なる容貌をもつ街が、その後片を残さんばかりに滅菌・漂白され、「新しさ」が唯一最大の価値となって旧来のモノが退場していく。そして、大多数の人は当然の顔をして受け流していく。功罪はさておき、日本らしい価値観が如実に発揮された街である。
概要:246が「玉川通り」の名で呼ばれる区間の終点となる街。行政上の住所としては存在せず、エリアを話す際の通称もしくは駅名である。1969年に開店した日本初の郊外型ショッピングセンター・玉川高島屋が長らく街のシンボル的な存在で、周辺には田園調布を始めとする高級住宅街があり、多摩川や遠くの山並みが織りなす景観、発声した時の二子玉川(フタコタマガワ)の響きの良さなどもあって、都心や下町とは異なる魅力で人気を集める街である。
歴史:名前の由来は、古来より多摩川を挟んで神奈川側にあった二子村、東京側にあった玉川村、二つの村の名を組み合わせた、江戸時代の「二子の渡し」からきている、などの説がある。
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大山参りが流行った江戸時代には幕府によって橋の建設は禁じられていたため、大山街道を行くには二子の渡し以外にはなく、また、富士山や多摩川の流れが一望できる景観の良さ、鮎の美味さが人を呼び、船着き場の周辺には茶屋・食事処・宿などが集まり、行楽地・宿場として栄えた。
明治末期の玉川電車の開通はその流れをさらに加速し、多摩川の河岸には料亭が並び、花街(三業地ともいう)が形成されていく。百畳もの大広間を持つ、京都の清水寺を模した「玉川閣(ぎょくせん)」が賑わい、屋形船が川面に浮かび、大花火大会も開催される都内有数の歓楽地となる。また、当時の玉川電車は、都心のビル建設に必要な多摩川の砂利を運ぶ生命線でもあった。
次の転機は1969年の日本初の郊外型ショッピングセンター・玉川高島屋の開店で、郊外型ライフスタイルの象徴となった二子玉川に、経済成長の恩恵を受けたマイカー族が(バイク乗りも)押し寄せるようになった。当然のことながら、渋滞の名所となったが、2015年に竣工予定の再開発が進むにつれて過去のものとなりつつある。