通称:裏原(うらはら)
人々が心に抱くモノ:“表”の原宿と同じく「ファッション」である。しかし、多くの人がファッションに目覚め、自分で収入が得られるようになってさらに熱をあげる10代から20代前半にかけての世代の一部以外の、つまり世の大半の人間にとって、“表”と“裏”の境界や区分けは分からない。理由のほうは明解である。“奇抜”や“反抗”を好む、まさに若者のカルチャーだからである。「自分にはよく分からないけど楽しいんだろうな」が一般的なイメージと思って差し支えない。
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参加する・しないに関わらず、このゲームの基本的な勝ち負けのルールは理解可能で、最後発の“裏(裏原宿)”が、“表(原宿・表参道)”よりも勝っている点は、早いと速いの両方の“はやさ”である。ゆえに、裏原のトレンドが一般に知られるようになった時点では、現実は既にその先をいっている。そしてゲームの当事者は、そうした「すべてを過去にしてしまう」ことで「今」を楽しんでいる。
ゲームの当事者(作る側・買う側)のどちらも無邪気なことが、原宿・裏原宿の両エリアの長年の特徴であったが、どちらも観光地化が進み、それも「過去の話」になりつつある。想い描く「原宿」のイメージを実感したければ、グローバル資本のファッションメーカーが大型店舗を構えるようになった原宿よりも、依然として小さな店舗が並ぶ裏原を訪れるべきかもしれない。
概要:原宿駅から竹下通りを抜けて明治通りを渡った先の「原宿通り」、表参道と交差する渋谷川を暗渠にして作られた遊歩道を中心に、小さなアパレルショップや雑貨屋が集まったエリア。「原宿」と区別してこの地域を取り上げる際に使われる名称で、原宿と同じく住所としては存在しない。また、渋谷川を暗渠にして作られた旧渋谷川遊歩道部分には「キャットストリート」の愛称も使われている。
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竹下通りと同様に、川を暗渠にして発展した通りのため、その周辺の街並み・通りも蛇行し、道幅も狭く不均等で、交差する表参道とは、雰囲気だけでなく空間的にも対照的な特徴をもつ。
原宿と裏原宿を分けて話す場合のポイントはファッションのカテゴリーで、このエリアに注目が集まった当初は、裏原宿=ストリート・ヒップホップテイストだったが、観光地化が進んだ今は、大きな違いは見られなくなっている。
歴史:原宿・穏田が村であった江戸時代は、徳川家康からこの地を賜わった伊賀衆の屋敷が点在し、小川が流れる田園風景が広がっていた。また、富士山を望む地のひとつであったことが浮世絵に残されている。明治の後半ぐらいまでは清流を保ち、蛍や鮎も見ることができた(らしい)。新宿御苑に端を発する渋谷川(狭義では穏田川)上流の原宿・穏田の辺りが暗渠化されたのは1964年、前回オリンピックの開催にあわせた東京大改造の一環であった。
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暗渠のうえに遊歩道が整備されたのは1967年。その後、キャットストリートという愛称で呼ばれるようになったが、その由来には「猫の額のように狭い通り」「猫が多い」「ブラックキャッツというバンドが生まれた土地だから」といった諸説がある。
竹下通りに代表される“表”の原宿カルチャーをベースに、ストリートのテイストや古着のアレンジを売り物にしたブランドショップが、この付近に現れはじめたのは90年代初頭。“裏原”系ブランドのブーム(当時の原宿・裏原はカスタムバイク&ビッグスクーターであふれていた)によって、この付近が“裏”として一般的に知られ始めたのは、その筋では1997年が定説とされている。2000年代の前半にはブームは収束、その後はお決まりの分散・カルト化が進み、“お兄系”や“サロン系”などが現れては消えていく歴史を重ねている。