通称:首都高(シュトコウ)
人々が心に抱くモノ:走る時間帯によって、抱く印象は全く異なる道である。また、自ら走るか、パッセンジャーとして走るかによっても、その残像はまるで違ったものになる。
深夜から早朝にかけての時間帯に走り抜ければ、まさしく「空中回廊」である。坂と川の街に密集したビルの合間を縫いながら、カーブとアップダウンを繰り返す首都高では、どんなライダーであっても、方向感覚はいともたやすく失われる。視界を流れていく景色、ネオンの残像だけがココロに刻まれていく。
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助手席で一巡りすれば(残念ながら、最も魅力的な区間のほとんどは、バイクの二人乗りが禁止されている)、東京という街の全体像が自分のなかにできあがる。ランドマークとなっている2つのタワー・六本木ヒルズなどの高層建築、ライトアップされたレインボーブリッジやベイブリッジ、日本橋・銀座・六本木・新宿・渋谷・池袋などの街並み・・・地平線からも、空からも目にできない、首都高だけが見せてくれる景色は、ほんの2時間もあれば一通り味わうことができる。
首都高を知るライダー(とドライバー)に「どんな道?」と尋ねれば、きっと彼らの多くはこう答えるに違いない。「楽しいよ。走ってみたらわかる」
概要:正式名称は「首都高速道路」である。東京の都区部とその周辺地域(神奈川・埼玉・千葉の一部)に張り巡らされ、路線数は20を超え、総延長が300kmに及ぶ都市高速道路である。
都心から半径3km以内を周回する「都心環状線(C1)」を中心に、そこから東西南北に拡がる放射線、その中間部をつなぐ中央環状線(C2)、東京・神奈川・千葉の東京湾岸部をつなぐ湾岸線などで構成されている。放射線の多くは、日本各地と首都を結ぶ主要高速道路につながっており、日本の高速道路ネットワークの根幹を成している。
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河川や海の上を走る区間や、幹線道路の上を走る区間が多く、高架や地下・半地下のトンネルが全体の9割以上を占めること、複雑な構造を持つジャンクション・出入口(首都高ではインターチェンジという呼称は使われない)が大きな特徴となっている。
歴史:前回の東京オリンピック(1964年)にあわせて計画されたと思われていることが多いが、最初の構想が打ち出されたのは1938年である。戦後の急速な経済復興がもたらした「都心部では車と歩行者の速度は同じ」といわれた状況を打破すべく、1958年には後に「空中作戦」の名で呼ばれた建設計画が議決された。
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運用開始は京橋から芝浦の区間4.5kmで、東京オリンピック開催を目前に控えた1962年(昭和37年)のこと。それからわずか21ヵ月あまりのうちに、当時の日本の表玄関・羽田空港と都心、さらに、競技場・選手村があった神宮外苑や代々木、新宿までを1本で結び、東京オリンピックの成功に大きく貢献するとともに、東京の景色を一変させた。
1968年の横浜羽田空港線の開通を皮切りに東京以外にも広がり、1970年代には東名高速道路や中央高速道路ともつながった。以後も、日本各地を結ぶ高速道路ネットワークの要として路線整備が進んでいる(同時に渋滞との闘いも続いている)。
日本の道路近代化を牽引、50年以上にわたる歴史を持つ首都高。都市高速道路としては、世界的に見ても最古参に属し、設計・建設の技術、保守・運営のノウハウは他国の都市高速道路建設にも影響を与えている。