D・ブリビオインタビュー
FIAT YAMAHA TEAM監督 D・ブリビオが2010年シーズンを振り返ります。
D・ブリビオインタビュー|ヤマハとの20年は生きた証!
ヤマハが僕を育ててくれた!
多くの方がおそらくはご存じだと思うが、私にとって今回がヤマハWEBサイトに登場する最後の機会となる。2010年シーズンの終わりにお知らせした通り、私はフィアット・ヤマハのチームマネージャーという現在の職を辞し、20年に及ぶファクトリーとの関係に終止符を打つことになった。この長い期間で私は、多くの友人に恵まれた。忘れがたい数々の思い出は、これから踏み出す次なる旅路の友だ。この20年は、私の生活と仕事のすべてだったと言っていい。
ここまでの個人史を少し紹介しておこう。私がWSBのヤマハサテライトチームで働き始めたのは1990年。ライダーは、ファブリツィオ・ピロヴァノだった。1991年はランキング2位となり、その翌年、事実上のファクトリーチームに所属して仕事をすることになった。事実上の、というのは、私が最初に所属したチームは1994年までイタリアで仕切るプライベーターだったからだ。その年の11月、ヤマハ本社から電話があり、私は日本へ招かれた。それが私とヤマハの最初の思い出だ。最も大切な思い出の一つでもある。今の仕事へと繋がる、かけがえのない瞬間だったのだから。
そこで彼らが切り出したのは、WSBのチームをイタリアで運営してほしい、というとても名誉な打診だった。プロジェクトリーダーやテクニカルダイレクター、コミュニケーションダイレクター等々の日本側のそうそうたるスタッフがいたのを覚えている。私は緊張していたけれども、非常に興奮する思いだった。彼らはWSBに参戦することを検討しており、私がファクトリースタッフとしてヤマハイタリアで運営する、という話だったのだ。即座に受諾するのは簡単なことではあったが、来るべきシーズンに向けて準備をするのはとても大変だ。当時イタリアには人材が少なかったものの、私たちは一生懸命に努力し、数年かけて強いチームの下地を整えていった。
残念ながらWSBでのヤマハのファクトリー活動は2000年いっぱいで休止することになったが、これは私にとって新たな転機になった。芳賀紀行選手とともに、MotoGPへ移ることになったのだ。当時は500ccクラス、という呼称だったが。私の仕事はそこでも、イタリアでレース部門を準備してMotoGPのファクトリーチームの受け皿を作ることだった。やがて、ファクトリーは2002年にオランダからこちらへ移転した。
そのときから私はMotoGPのチームマネージャーとして活動するようになり、様々なことが次から次へと発生した。バレンティーノ・ロッシ獲得は最高の出来事だったし、レースについて言えば、2004年のウェルコムと2008年のラグナセカは最大の山場だったが、個人的には、2008年の中国GPがとても重要なレースだった。2006年と2007年に苦しいシーズンを過ごし、多くの人々が私たちに疑念を抱き始めていた。しかし、そのレースで私たちは復活を宣言した。このときの勝利は、新たなスタートのようなものでもあったのだ。
良き挑戦と良き思い出
バレンティーノを獲得するという案について最初に議論したときのことは、よく覚えている。ヤマハの多くの関係者が、バレンティーノの移籍には懐疑的だった。まるで夢のような、つまりそんなことはとても正気の沙汰ではなかったのだ。だが、私が動き出すためには彼らの信用を得ることが必要だった。やがて皆は、これはけっして不可能なことではないと認識しはじめた。良き友でもある古沢政生氏に相談するのは、全体の過程の中でも重要なステップだった。というのも、ヤマハ社長を説得して資金を用意しなければならないのは彼だったのだから。ファクトリー内で彼は大事な役割を担ってくれた。一方、私はバレンティーノや彼のマネージメントチームに接触した。古沢さんはこのプロジェクトにヤマハを引っ張り出す大任を果たしてくれて、ヤマハ側の真剣な誠意を目の当たりにしたバレンティーノは、即座にサインに応じたのだ。
正直なことを言えば、およそ10~11ヵ月前まで、バレンティーノはヤマハでレース人生を終えると思っていた。バレは何度となくヤマハを去るつもりはないと言明していたし、それが本心であることもまた、私にはわかっていた。しかし、レース界は生き馬の目を抜く世界で、驚くような出来事も往々にして発生する。とはいえ、バレンティーノ・ロッシとヤマハの関係が特別であったのは真正の真実だ。双方ともに、この良き思い出を永遠に記憶し続けるであろう。
それは私にとっても同様だ。私はこれから、バレンティーノ個人のマネージメントチームとして新しい挑戦を開始するが、いつまでも忘れることのできない日本の友人たちの名前を数え上げれば枚挙に暇がない。中島雅彦さんは、長年にわたってともに仕事をしてきた仲だ。古沢政生さんは、ヤマハの歴史に「バレンティーノ時代」を刻む役割を果たしてくれた重要人物だ。広報の方々にもお世話になった。あるいは、最初の時代にWSBプロジェクトで重要な仕事を担ってくれた鈴木さんや星野さん。他にも、本当に多くの方々と一緒に仕事をさせていただいた。
全員の名前を挙げることは控えさせていただくが、ひとりひとりの顔が脳裏に思い浮かぶ。ヤマハで仕事をしてきたこの長期間に、私は職業人として成長を遂げた。皆様には、衷心より御礼を申しあげたい。彼らのおかげで私は自信を持つことができ、夢を実現してゆくことができたのだ。レースの仕事をすること、グランプリで働くこと、そして、世界チャンピオンを獲得すること。私を信頼し、チャンスを与えてくれたすべての方々に感謝をしたい。彼らの、そして皆様の名前を、私はけっして忘れることはないだろう。
ヤマハの人間としてほぼ20年間を過ごした私は、今から新たな挑戦を開始する。今までとは別の立場から物事を見ることになるのだから、実に楽しみで胸をときめかせている。重要なのは、ヤマハを去っても個人的に良好な関係は変わらず、それは今後も続いてゆくということだ。ヤマハは今までもずっと同様フレンドリーな企業だったし、その姿勢は今後も変わることがない。プロフェッショナルな目標のために別の道を歩むことになったが、一個人としては、私は今後も今までと同じ人間なのだ。
ありがとう、ヤマハ!
チャオ。ダビデ