1962年11月3、4日の両日、前年に完成したばかりの三重県・鈴鹿サーキットで、第1回全日本選手権ロードレースが開催された。このレースは、専用サーキットを使った日本では初の本格的ロードレースだった。

ヤマハのマシンは、「YDS1」をさらに高性能化した市販レーサー「TD1」(250cc)だった。TD1は、1962年の初めから輸出が開始され、ヨーロッパ各地のレースで勝ち星を重ねていた。今日の「TZ250」へとつながるマシンである。これを駆って鈴鹿サーキットのオープニングレースに挑戦することが決定した。

第1回全日本選手権ロードレースのノービス250ccクラスで、トップでチェッカーを受ける三橋実選手(1962年11月)

ヤマハはライダー養成に全力を挙げた。全国紙に新聞広告を出すと同時に、ディーラーの推薦で優秀なアマチュアライダーを募集した。書類選考で残った60人による天竜テストコースでの走行テストの結果、20数人に絞り込まれた。

一方で、鈴鹿に土地を確保して整備場を建設。スタッフが泊まり込み、ギリギリまでエンジンの改善や性能アップ対策に力を入れた。改良した部品を運ぶため、本社と鈴鹿の間を何度もレース車両が往復する。レース前日には、万一に備えてスペアエンジンを現場に持ち込めるようにヘリコプターの手配もした。

そして迎えたレース決勝は、雨中の戦いになった。照準を定めたのはノービス部門の250ccクラスと350ccクラス。このうち250ccクラスの出走車は25台で、ヤマハが15台、ホンダが10台。結果は、TD1が雨で濡れた初コースをものともせず、抜群の操縦性によって1、2位でフィニッシュ。350ccクラスでもTD1のエンジンをボアアップしたマシンが1位でチェッカーを受けた。

第1回全日本選手権ロードレースのセニア250ccクラスで快走する伊藤史朗選手(1962年11月)

国内最高峰のレースで勝利したヤマハは、この後、積極的に世界グランプリに参加し、さらに上を目指す。ヤマハのファクトリーレーサーは、1959年7月に開発を始めた「YX18」(125cc)を起源とし、250ccでは「RD48」を経て「RD56」へ、125ccでは「RA41」「RA61」と単気筒マシンの開発後に2気筒マシンの開発に移行、「RA75」へと発展した。

マン島TTレース250ccクラスで2位に入賞した伊藤史朗選手(1963年)
マン島TTレース250ccクラスで4位に入賞した長谷川弘選手(1963年)

「RD56」は、史上最強の空冷2ストロークレーサーとうたわれたマシンで、1963年のイギリス・マン島のTTに出場(6月)。このときイギリスの専門誌が計測したスピード記録では226.92m/hとクラス最速をマークしているが、これは500ccクラスを含め第5番目のタイムにあたり、ヤマハ2ストロークエンジン技術に欧米の専門家が等しく注目するところとなった。  続いて行われたオランダGP(6月)においても125cc、250ccの両クラスで2位に入賞し、ついにベルギーGP(7月)で優勝を飾った。コースは高速コースとして名高いスパ・フランコルシャンで、ラップタイムでもレコードを樹立して高く評価されることとなった。

さらにヤマハはファクトリーマシン開発チームを編成して「RD56」レーサーを熟成、「常勝するマシン」の開発に取り組む。その結果、1964、1965年と連続して世界グランプリの250ccクラスでメーカーチャンピオンに輝いた。

ヤマハライダーとして初の世界チャンピオンに輝いたフィル・リード選手(1964年)

しかし、世界GPを囲む状況は変わる。日本のメーカーが威信をかけたGPレーサーの開発競争が加熱し、ヨーロッパのメーカーを圧倒。これを憂慮したFIM(国際モーターサイクル連盟)が1968年、GPレギュレーション(500cc4気筒、250cc2気筒、トランスミッション6速などの参加車両規定)を改定したのである。このためホンダとスズキが、1968年に世界グランプリからの撤退を表明し、ヤマハも翌1969年3月、撤退を決めた。

ファクトリーチームとしてのロードレース活動は1972年まで中断したが、その間世界グランプリへの参戦を可能としたマシンを市販レーサーとして市場に提供。以降も多くの国のプライベートライダーやチームが当社のマシンを駆って活躍した。

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