事業が拡大していくなかで、ヤマハは常に「自らの手で需要を創造する」という考えのもと、さまざまな普及活動を推進した。モーターサイクルやモーターボートの製造販売だけでなく、その安全で正しい使い方、それで得られる楽しさを知ってもらう。そのためのソフト開発である。

普及活動は、二輪車事業に先駆けてマリン事業からスタートした。ボートを発売して2年後の1962年に「ヤマハ水上スキー教室」を開設したのが始まりで、1970年代に入るとさらにこの活動は多彩になっていく。

ヤマハ水上スキー教室(1964年)

めざましい経済成長によって、国民所得の上昇や余暇時間の増大した国内では、次第にマリンスポーツに対する人々の関心が高まり、プレジャーボートやセールボートが急速に普及したこともある。だが、この時期、日本にはまだ海や港を憩いの場として利用する伝統や文化は根づいていない。

マリンスポーツを楽しむためのルールやマナーも確立されていなかった。そうした中で、ヤマハは1971年、本社に安全普及本部を設置。これ以後、海で遊ぶ醍醐味、自然の美観を守ることの大切さなど、シーマンシップの浸透を図っていった。

同じ年、「ヤマハボート免許教室」を開講した。その狙いは、プレジャーボートやセールボートなどの普及に伴ってスタートした免許制度への対応、併せて海事思想や技術を幅広く普及させることにあった。ヤマハは、運輸省(当時)と話し合い、マリンレジャー先進国の実情、健全なマリンスポーツ育成の重要性などをアピールする一方で、ボート免許教室を通じてシーマンシップや航海術の向上を図っていった。

ヤマハ海技免許教室(1971年)

水上スキー教室に始まったマリン関連のスクールは、後に商品の多様化に伴い、マリンジェット、ダイビング、フィッシングなどマリンライフを豊かにするスクールの展開につながっていく。こうしたスクール活動のほかにも、ヤマハディンギーのユーザーを組織化し、また、ヤマハヨットウィーク、フィッシングコンテスト、セールクルーザーレースといった多彩なイベントも企画した。

一連のマリンレジャー普及活動は、「日本に新しいレジャーを定着させたい」という川上源一社長(当時)の年来の夢が出発点になっている。「レジャーは国民生活にとって必須のもの。レジャーの正しいあり方を進めるのは、社会的に意義があること」、さらには「赤字はいけないが、長いそろばんをはじけば必ずプラス・マイナスがゼロになるときがくる。そうした事業を進めることは、ヤマハにとってもイメージ的にプラスであると信じている」と語っている。

こうしたマリンレジャーの普及活動を粘り強く続けてきたことが、日本におけるマリンレジャーの底辺を確実に広げてきたのだった。

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