自動車レースにかかわる者なら、誰もが夢見る世界最高峰F1グランプリ。F2、F3000によって着実に自動車レースの実績を積み上げたヤマハは、1988年、西ドイツのザクスピード・フォーミュラ・レーシング社とタイアップして「ウエスト・ザクスピード・ヤマハチーム」を結成した。ヤマハが独自に開発した75度V型8気筒、DOHC5バルブ3,489cc、最高出力600馬力以上を発揮する新エンジン「OX88」を搭載したニューマシンで、1989年のF1グランプリに挑戦するためだった。
すでに、F1へのステップアップを決めていた鈴木亜久里が新チームへ参加して、中島悟に次ぐ2人目の日本人F1レーサーとしての期待も高まった。結果は厳しいものだったが、1990年にはOX88に続く軽量でコンパクトなエンジン「OX99」を発表。これは70度V型12気筒・5バルブ・3,498ccで、OX88と同様に最高出力は600馬力以上を発揮した。
さらに1991年のF1シリーズ第1戦・アメリカGPからは、この新エンジンOX99を搭載した「ブラバム・ヤマハ・フォーミュラワンチーム」での参戦となった。その後、「ジョーダン・ヤマハ・チーム」、さらに「ティレル・ヤマハ・チーム」などで参戦。その後も継続的にF1へのチャレンジを続け、1997年には「アロウズ・ヤマハ・チーム」のデーモン・ヒルがハンガリーGPで2位に入るなどの戦績を残したが、同年を最後にF1レースから撤退した。
ヤマハはF1のエンジンサプライヤーとして、1989年からのべ8年間、116戦にわたって闘いを続けた。戦績とは別に、ここでも積極的な活動の継続を通じて、ヨーロッパのF1文化を構成する一員としての位置を確保し、多岐にわたる経験やノウハウ、人的ネットワークなど、貴重な成果を得ることになった。
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