トヨタ自動車工業とヤマハ発動機の間に、スポーツカー開発に関する技術提携の契約が交わされたのは1965年9月8日。しかしその前年の12月には、「トヨタ2000GT」の開発協力プロジェクトはスタートしていた。

トヨタ2000GTの全体レイアウト計画やデザイン、基本設計などはトヨタ側でなされ、ヤマハは同社の指導のもとで主にエンジンの高性能化と車体、シャシーの細部設計を担当した。開発チームの平均年齢は30歳前後。全員が自動車に並々ならぬ関心を持っていたが製造上の知識、経験はゼロに等しかった。

トヨタ2000GT

開発は、1965年10月の東京モーターショーへの出品を目指して進められた。エンジンは「トヨペットクラウン」に搭載されていた2000cc直列6気筒エンジンをDOHC化し、大幅な出力アップを図るというものだった。また、シリンダーヘッドカバーに黒色艶消し縮み塗装を施したが、エンジンが露出しているモーターサイクルでは当たり前のことも、ボンネットの下に隠れている自動車用エンジンにデザインを施す例は国産車ではそれまでほとんど見られなかった。

体の設計や製作も初の試みとなるものが多かった。トヨタ自動車の基本設計から原寸大の図面をつくり、それをもとに板金用の木製グリッドを作成した。ボンネットやトランクリッドには、ボート製造で培われた手づくりのFRP成形技術を活かし、ルーフやフェンダー、ドアなどは"匠"の技による板金叩き出しで製作を進めた。また、内装部品では木製のステアリングやシフトノブ、インパネなどが採用された。夏期には異常な高温となる車内で天然木の割れやヒビなどが出ないようにするため高度な技術を必要としたが、楽器づくりで培った木工技術を駆使してそれへの対応を図った。ほかにもマグネシウム鋳造のディスクホイールの採用や手吹きによる外観の塗装など、さまざまな面で高度な技術を必要とした。

こうして、当時考えられる最新・最高の技術要素を取り入れて完成した試作車は、トヨタ2000GTとして1965年の東京モーターショーで発表された。

スピードトライアルで3種目の世界新記録、13種目で国際新記録を樹立

市販車としてのトヨタ2000GTは、第1期工事を終えた磐田新工場で生産を開始したが、内容は試作車製作と大きく変わることはなかった。量産とはいえ、1台1台を手づくりで製作するという形で進めたが、特に車体の製作では国産車初の曲面ガラスの作動機構やFRP部分と板金部分の塗装の色合わせなど、試行錯誤の連続となった。 また、市販車としてクリアしなければならなかったことに、完成検査があった。トヨタの検査は基準が非常に厳しく、検査基準になかなか合格できなかった。特に、水漏れやワイパーのきしみ音などの解消には悩まされた。こうした問題点の一つひとつを解決し、市販車第1号が完成したのは1967年2月のことだった。

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