1963年秋に開催された第10回全日本自動車ショー(東京モーターショーの前身)は、例年にも増してヤマハにとって特別な意味を持つショーだった。この会場で、ヤマハは従来の2ストロークエンジンの概念をまったく変える自動分離給油装置「オートルーブ」を発表したのである。
英語の「automatic lubrication=自動給油」を語源とするオートルーブは、それまで2サイクルエンジンのウィークポイントとされていた混合給油というシステムを、4ストロークエンジンと同様の分離給油とした点で画期的だった。オートルーブの登場は給油のわずらわしさからライダーを解放し、さらにオイルの消費量を抑え、排気煙を大幅に減らせるという利点ももたらした。
市販車への採用は、まず75ccの「YG1D」と125ccの「YA6」の2機種で行われたが、それより以前、ヤマハはレーシングマシンのテクノロジーとして分離潤滑の研究を進めていた。たとえば1961年のフランスGPには分離潤滑のマシンが出走しており、ここにレーシングテクノロジーの一つとしての歴史を垣間見ることができる。しかし、翌1962年頃になると国内外で公害問題に対する機運が急速に高まり、市販モーターサイクルへの応用が急がれることになったのだった。
こうして発表されたオートルーブは、国内外で大きな反響を呼ぶことになった。1964年、アメリカの『オート&モータースポーツマガジン』誌の年度優秀賞を受賞したのを皮切りに、米国機械工学会からも表彰を受けるなど、文字通りエポックな技術革新として世界中から高い評価を受けることになった。
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