ヤマハ発動機株式会社

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1953-1955 モーターサイクル事業への参入と、ヤマハ発動機の設立

1953年11月7日、ヤマハ発動機の前身である日本楽器の幹部社員に対し、川上源一社長から極秘の方針が伝えられた。
「オートバイのエンジンを試作する。できれば5~6種類くらいのエンジンに取り組む必要がある。その中から製品を選び、1年後には本格的な生産に入りたい」
日本が復興への道を歩み始めた1950年代、無数の企業が二輪業界へと参入し、その数は一時204社までふくれ上がった。しかし、川上社長がモーターサイクルの製造を示唆した頃にはすでに淘汰も始まっており、「そういう市場に最後発として参入して、果たして本当にやっていけるのか」という戸惑いの声も社内にないわけではなかった。

のちに川上社長は「今どきになってオートバイを? という意見もありましたが、自分もヨーロッパを回って、技術部長その他に勉強させた結果、これをやるのが一番よろしいという確信のもとにスタートした」と説明。さらに「木材資源の面から見ても楽器の無制限な増産は困難。楽器産業はいつまでも楽にできる商売ではない」と語り、将来の事業発展の足がかりとしてモーターサイクル製造に賭けたことを明らかにしている。

「YA-1」試作第1号車と技術担当スタッフ

モーターサイクル事業への進出は決まったが、難航したのは模範とする車種の絞り込みだった。数種類の欧州車が候補に上がり、ギリギリまで検討した結果、最終的にドイツDKW社の2ストローク・125cc車「RT125」をベースに開発をスタートすることで決着する。 RT125は、"世界で最も多くコピーされた"といわれる名車だった。

さっそく試作車の開発に取り掛かったが、当然ながら初めて取り組むそれらの作業は困難を極めた。たとえばピアノフレームの鋳造技術を基にしてつくり上げた最初のシリンダーは「どびん」と揶揄されるほどの代物だったし、しかも鋳造に砂型を使ったため、DKWの美しいフィンには遠く及ばない出来栄えだった。エンジンは基本的にDKWを踏襲したが、変速機は3段変速から4段変速に変更し、変速ペダルとキックペダルを同軸とする独創の設計を試みた。さらに、始動方式は変速ギアがどの位置にあろうと、クラッチさえ切ればキックが可能な日本で最初のプライマリー方式を採用し、画期的な扱いやすさを実現した。
これらの技術的な特徴は、まさにベースモデルであるRT125とは一線を画すものだった。

黒色一辺倒のモーターサイクルが当たり前の時代、「栗毛の駿馬」をイメージした茶褐色クリーム色のツートンカラーは斬新で、軽いキックで常に一発始動のエンジン、シャープな加速性、軽快なハンドリングなどから「赤とんぼ」の愛称で呼ばれた。このカラーリングを担当したのは、東京芸術大学図案部の小池岩太郎助教授を中心とする学生たちの集団「GK(Group of Koike)」であった。

この間、常に現場に身を置き陣頭指揮を執った川上社長は、自らエンジンを組み立て、試作車を運転して走行テストにも参加している。また、浜名湖を一周する公道で、当時としては異例の1万km走行の耐久テストも行った。

「YA1」の1万キロテストのゴール
「YA1」の初荷風景

1955年2月11日、新たに建設された日本楽器浜名工場で、待望のヤマハモーターサイクル第1号、空冷2ストローク125ccの「YA1」が完成、出荷される。

1号機は早速、技術部長自らが乗って浜松市内の販売店へ納品することになり、とりあえず工場は作業を中止し、80名の全従業員が正門の両側に並んで見送った。開発がスタートして出荷にこぎつけるまで、実質8ヶ月余りの驚くべき早さだった。川上社長は常々「慎重とは急ぐこと」と語っていたが、まさにそれが実践された形だった。

販売網は、日本楽器の各支店に設置された「ヤマハ発動機販売所」に配属された営業マンがサンプル車を駆って、既存の他社の特約店やモーターサイクル販売店、自転車販売店を回って開拓していった。しかし、最後発メーカーであったため、地域一番店といわれる特約店はすでに先発メーカーとの絆が深く、交渉は難しかった。しかも、125ccクラスのオートバイの平均価格が11万円から12万円前後のところ、YA1の価格は13万8,000円。
品質に絶対の自信があったとはいうものの、発売直後はなかなか売れなかった。  それでも、斬新なカラーリングやデザイン、軽量で容易な取り回し性、さらに、当時としては極めて重要な始動性のよさが知られることによって取り扱い販売店も徐々に増え、やがて生産は軌道に乗り出す。

こうして1955年7月1日、オートバイ製造部門を日本楽器から分離独立させ、「ヤマハ発動機株式会社」を設立した。本社は静岡県浜松市中沢町、資本金3,000万円。社長は川上源一が兼務した。月産の目標が200台、従業員は150余名、工場は木造平屋2棟でのスタートだった。

浅間コースの視察を兼ねて行われた「YA1」の乗鞍テスト
浜名工場(現・浜松市)のエンジン生産ライン(1957年)

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