熟練のクラフトマンたちによる「セル生産」の現場
「SR400」のエンジンは、そのシンプルな構成と機能美で多くのファンに愛されてきた。しかし、単気筒とは言えモーターサイクルの心臓である。人びとが思い描くほどその構造は簡素なものではない。部品点数、およそ600点。その一つひとつを精緻に組み上げることで、あの心地良いサウンドと鼓動が生み出される。「SR400」のエンジン組み立ては、高級腕時計のようにたった一人のクラフトマンがゼロから完成までのすべてを担う。習熟した作業者でも1基組み上げるのに1時間を要する重厚感のある仕事だ。気が遠くなるほどの時間をエンジン部品と向き合い続け、通算約3,000基ものSRエンジンを組み上げてきた匠も存在する。(撮影は2019年6月に行いました)
セル生産。
別名、
匠の職場。
ヤマハ発動機のモーターサイクル組立工程は、大きく3つ生産方式に分類される。そのうち生産量が最も多いのは分業流れライン。約70mのラインの上で、50人ほどが分業して1台の製品を組み上げていく。一方、大型ショートラインは、生産量の少ない大排気量車専用の短いライン。モジュールごとに振り分けられた数か所のステーションで、それぞれ2人ずつの作業者がチームで組み立てを進めていく。そして最後に「セル生産」。別名「匠の職場」とも呼ばれている。
セル生産とは、一人もしくは少人数の作業者が、製品の完成までの組み立てを担う生産方式。カメラや腕時計といった精密機械の組み立てで脚光を集め、ヤマハでも2010年頃から一部の製品の組み立てに導入した。モーターサイクルの量産工場におけるセル生産方式は、極めて稀有な存在と言える。
狙って、
出す。
ど真ん中。
「SR400」のエンジン組み立ては、エンジン1基の完成まですべての工程を一人のクラフトマンが担う。約600点の部品から1基のエンジンに組み上げるためには、当然ながら部品点数を超える手の動きが必要だ。これを要素数という。量産ラインであれば一人の作業時間は1~2分。要素数もおよそ10~60程度。しかしSRエンジンのセル生産では要素数は600以上となり、熟練者でも1時間はかかる。
「大切にしているのは、向上心と集中力」。これまでに3,000基ものSRエンジンを組み上げてきた熟練者はこう話す。この職場に抜擢された頃、1基組み上げるのに約90分もの時間を費やした。それがいまでは50分強。どこでロスが起こるのか、どこにミスが潜んでいるのか、考え続けることでピッチを上げてきた。時間の余裕はより高い精度の追求というモチベーションを生み出した。「たとえばバルブクリアランスの調整。ど真ん中を狙って出す」。よし!最高の性能を与えられたという達成感が身体を貫く。
儀式。
そして、
職業病。
クラフトマンの仕事の終わりには儀式がある。1時間にわたって格闘の舞台となった作業台を磨きあげる。一心不乱に。感謝を込めて。それに納得すると、やがて丁寧な手つきで治具類を並べ直す。わずかなずれも許さない。許せない。あたりを見渡し、台車が正しい位置に正しい向きで並んでいるか、床にケミカル類の汚れはないかと順を追って確認し、その儀式は終わる。ふぅっと短い息が漏れる。
クラフトマンによって組み上げられたエンジンは、車体組み立てのセル生産職場に送られてフレームに懸架された後、完成検査場へと進んでいく。検査員によってキックが踏み下ろされると、数時間前までバラバラだった600点の部品に火が入った。ド、ド、ドドド。街を走る「SR400」の音にも、つい耳を澄ましてしまうのは職業病か。「よし、いい音だ。ど真ん中の音だ」。誰にも負けないという自負を持つ、バルブクリアランスの工程がふと頭に蘇る。