1960年代の後半、マリンスポーツの普及活動と平行して、ヤマハはモータースポーツの教室活動を全国的に展開していく。

この時期、急速に進行したモータリゼーションの波は、人々の暮らしを便利にした反面、交通事故の増加をもたらしていた。1970年時点での国内の二輪・原付の保有台数は885万台となり、1955年からの15年間で10倍以上に拡大。交通安全対策に対する社会的な関心が高まっていた。

スクールでは、モーターサイクルの「正しい乗り方」を指導することで安全運転への認識を高めると同時に、モータースポーツの楽しさを知ってもらい、ファンの輪を広げていくことを主旨とした。その第1弾が、1968年4月に開設した「ヤマハ安全運転教室」と「トレール教室」だった。

トレールランを楽しむライダーたち

1968年にトレールバイク「DT1」を発売すると、オフロードスポーツの人気は一気に高まった。ヤマハトレール教室では第一線のライダーを講師に、不整地走行の基礎トレーニングや点検整備の講習などを通して、新しいジャンルのモータースポーツの浸透を図っていった。また、1970年9月には全国35カ所にオフロード走行を楽しむヤマハトレールランドを開設し、若者の圧倒的な人気を集めた。

ヤマハ運転免許教室(1969年)

一方、1969年5月には原付1種の免許取得を促進するため、「ヤマハ原付免許教室」をスタートさせた。手本は日本楽器製造(現・ヤマハ株式会社)の「ヤマハ音楽教室」だった。「音楽教室のエキスをもらってオートバイの教室をつくったらどうか」という発想から、この原付免許教室も全国で展開され、受講者は開設1年で16万人にも上った。

第1回ヤマハグランドスポーツフェスティバル(1972年8月)

モーターサイクルファンを対象としたイベントも積極的に展開した。1972年8月5~6日、富士スピードウェイで開催した「第1回ヤマハグランドスポーツフェスティバル」(YGSF)をその一つ。モーターサイクルファンなら誰でも参加できる大規模なイベントとなった。2日間の集客はのべ8万人。モトクロス、ロードレース、カートレースに参加したライダーが1,500人。会場にはバスが380台、四輪車3,800台、二輪車5,000台が集結した。翌1973年8月にも第2回YGSFが開催され、このときはさらにスケールアップし、2日間で9万5,000人が参加した。

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