マリン事業を見据えた動きは、船外機だけに止まらない。船外機と平行して、マリンスポーツの"主役" モーターボート事業の可能性も検討していた。ヤマハが着目したのは新素材の「FRP」だった。FRPは、ガラス繊維で織った布をポリエステル樹脂で固めたもので、これを使ってボートの船体をつくると、非常に軽く、しかも大きな強度が得られた。
発想の発端はアーチェリーである。自身も洋弓に親しんだ川上源一社長はかねて弓の精度を高める方法に腐心していたが、1958年、南北アメリカ市場とカタリナグランプリを視察したとき、FRP製の洋弓を入手する。また、アメリカでFRPのモーターボートが普及しているのを見て、その将来性に注目した。
非公式にFRP研究の指示が出たのは1958年の夏だった。日本楽器天竜工場の片隅にしつらえたベニヤ板囲みの小部屋で、密かに成形技術の開発が始まった。翌1959年、日本初のFRP製アーチェリーの試作に成功すると、同じ年の夏には、社外に設計を依頼し試作していたFRP製ボートのランナバウトが姿を現す。12フィートと14フィートの2種類で、これが最初のヤマハボートだった。
この試作艇でテストを繰り返し、改良を進めたヤマハは、1960年5月、第1号の市販FRPモーターボートを発売する。ランナバウトの「RUN13」(全長3.95m)とカタマランボートの「CAT21」(全長6.9 m)の2艇だった。RUN13は新しい船型のV字型を採用。カタマランは「双胴船」の意味で、CAT21はスピード性能と居住性に優れたカタマラン船型を取り入れた意欲的なモーターボートだった。
モーターサイクルと同様、製品を市場に導入すると、ヤマハは迷わずレースの世界に飛び込んだ。競争の世界はヤマハ製品の品質を広く知らしめると同時に、技術開発力を高め、さらに社員の士気を高めることをヤマハはすでに身を持って知っていた。
デビュー戦に選んだのは、1961年7月に行われた「第1回東京~大阪太平洋1,000kmモーターボートマラソン」だった。このレースは、全国モーターボート競走会連合会の主催で、東京~大阪間の雄大で変化の激しい外洋コースでタイムを競うレースだった。このレースに出場したCAT21には、米国スコット社製の75馬力エンジンを4機搭載した。当日は14隻が出走したが、荒天や船体の故障で完走したのは5隻。そうした悪条件の中でCAT21は3日間ともトップを維持して完全優勝を果たし、ヤマハモーターボートの耐航性を実証した。
レースでの勝利は、その後、技術陣に「海と戦えるボートづくり」というコンセプトを定着させることになる。ヤマハモーターボートもまたレースによって、その実力を証明したのだった。
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