やまももの木は知っている ヤマハ発動機創立時代のうらばなし
ヤマハ発動機の技術ストーリーをご紹介します。
15新しい事業への決断
4月26日、川上社長の招集によって、部長以上が出席して重要会議が開催され、私も陪席させて頂いた。席上、川上社長からは会社の方向性を示す所見が述べられた。
「ピアノ、オルガンの状況は皆の努力で良い成績を挙げられるようになってうれしい。この際余剰の人を捻出して、日本楽器将来のため新製品を考えるべきだ。東京支店を作って金を使ったけれども結果は良くでている。今後の方針としては
1. オートバイ関係の仕事をものにする
2. 管楽器の輸出をする
3. 電機関係の製品をつくる
その中でもオートバイについては決心したから本腰を入れてやっていきたいし、本来の楽器の生産も決して縮小しようというのではなく逐次上げていきたい。この方針に対して異論のあるものは活発な意見を出してほしい」
実に力強く、将来を卓見されたご発言だった。
この席でホーニングマシンが納期6ヵ月もかかるというので購入の許可を得た。そして楽器関係に残る人と、オートバイを担当するものとが社長から指名された。オートバイを担当する顔ぶれは、高井部長を長として根本、伊藤(福)、竹内(十)、高畠の各氏と私であった。
そこでいろいろ議論の末、川上社長からは、
「スタートするまではハーキュレスをモデルとして開発する以外方法はない。市場はきわめて悪いときであるから他を押しのける位の気迫が必要である。しかし最初にミソをつけたら駄目であるから、慌てないようにやってほしい。優秀な作業員を専属として将来は幹部となるように教育していき、皆が協力してもらえるような陣容をつくるように。最終的には別会社でやりたい」
といった具合に具体的な指示が出されて、次第に骨格らしきものが浮かびでてきた感じである。
5月には東京でモーターショウが開催され、出品車をみると我々がモデルにしようとしていたハーキュレスの150CCは既に真似した車が出ていることがわかり、またふり出しに戻ってしまった。
16オートバイ業界
一方、浜松の市中では「日本楽器が小松の工場でオートバイの生産を始めたらしい、なぜ日本楽器がこんな時期にオートバイなんか始めるのか。物好きなものだ」と、いつの世にもある無責任な世の批判の声があった。
そうした世の批判をよそに、社内では、価格はいくらにするか、生産規模は、エンジンのCC(排気量)は、競争相手のメーカーの実力は、などのテーマのもとに会議は激しく続けられていった。しかしながらなかなか結論はでなかった。
5月18日には芸大の小池岩太郎先生に初めてお会いした。これは、当初デザインを一般から募集するために先生の意見を伺うためのものであったが、ヤマハとGKグループとの結びつきの始まりであった。
小池先生の門下生6名が後にヤマハオートバイのデザインを担当することになるが、このことについては後述する。
当時は少量生産のメーカーが多く乱立していたが、当面の生産目標は500台とし、最高能力は2,000台におさえ、余剰の機械は処分することで計画はすすめられた。こうして機種が定まらないうちにシリンダの図面だけが先行して5月21日に完成した。
このころ葵町に、ホンダの浜松製作所が新設され、近代的設備を誇って稼動に入っている。
17二転三転
6月の半ばにはザックスのエンジンを分解した結果を参考にし、設計の方向性をだしているが、優先順位は依然としてハーキュレスに使われているザックスの150CC、次いでDKWの250CCが続き、DKWの125CCは最後になっている。部品の加工と購入品などの内外作分担は相当難しい問題であったが、日本楽器の購買関係の力がやはりものをいって、手配も徐々に順調になっていった。
設計陣には内藤(現昌和取締役)、金子、外山(現浜北工業取締役)氏も補強され、また経験者として安川(現三信取締役)、村上(富)両氏も入社され、陣容も強化された。工具工場の西側のひさしの下に秘密室が設けられ、ここで設計がすすめられ、厳重な管制のもと関係者以外は絶対に出入はできなかった。
スクーターに対しても一応関心があった。自工会のしらべによると、5月の生産は富士重工のラビット840台、三菱ピジョン1,572台、ホンダのジュノオ1,049台他となっている。
6月23日、見本車として購入したDKWの125CCが到着し、いろいろ検討してみるとなかなか魅力があって、これをモデルにしようといった意見が出始めた。6月25日、関係者間ではDKWの125CCを第一目標にしぼり、販売面、資金的な面について白熱の議論がたたかわされた。
6月26日には、2サイクルエンジンについて造詣の深い工学博士の富塚清先生をお招きし、オートバイについての専門的な面からの講義を受け、いろいろの角度からの質疑応答がくり返えされた。面白いことには富塚先生は、もし日本楽器がオートバイを始めるなら今後2年はかかるであろうと予測されている。しかし実際は8力月後にはまがりなりにも生産に入っているのである。
また、その席上で川上社長は「慎重とは急ぐことなり」と発言されておリ、そのときのポリシーが短期間に生産に入ることになったロ火を切ったものと思う。
明けて27日は、オートバイのテストライダーであり評論家の伊藤兵吉氏を招いて懇談会を開き、オートバイのあるべき理想像といったものへの追求が活発に行われた。それから伊藤兵吉氏にDKWの125CCとハーキュレスの150CCとを乗りくらべて頂いたが、結果はDKWの125CCの方が評価が高かったように思えた。ただチェンジが三段であることが少し不満だったようだった。
この道についてはほとんど素人ばかりの我々にとって、この二日間の勉強会はかなり専門的知識を豊富にすることができたものと思う。そこで複雑なポートの形状を有するシリンダの鋳造および加工がうまくできるならば、4サイクルに比べてエンジン構造の簡単な2サイクルの方が、性能的にもコスト的にも有利であるという考え方がだんだん強く支配するようになってきた。
18モデル車決定
難行苦行を重ね、試行錯誤をくり返してきたモデル車の選定も、ついにDKWの125CCに決定する日がきた。6月28日の午前に「250を第一着手として、DKW125を後に計画せよ」との内示を受けたのであるが、その日の午後、先程の指示が訂正され「最終的にDKWの125に決定する」という社長の決断が伝えられてきた。
これから以後はもう迷いはなかった。ただひたすらDKW125CCをモデル車として、ヤマハオートバイ誕生への道が拓けていくのである。熟慮断行ということばがあるが、文字通りの瞬間だったと思う。この辺の事情でいかに最終の意志決定が大変なものであったか、その後の経過からみてもたしかに適切であったこととあわせて、ただただ敬服する決定だった。
この日、当時通称小松工場の建設も許可を得て、設計手配に入ることになった。
7月3日にはオートバイ関係の基幹要員の初会合がもたれ、高井技術部長より新しい企業を起こし、出発のための考え方が示された。
「ホンダとは異ったものをつくりたい。つねに高いところに目標をおき、企業精神を確立し、我々のつくったオートバイは国内だけを目標におくわけにゆかぬ。やがて海外に雄飛するためにも………」
熱の入った訓示がつづけられた。
それを契機として、企業の新たな脈動ともいうべきいろいろの作業が活発に行われた。7月5日には、日本楽器の鋳物工場でシリンダの鋳造が始めて行われた。第一回はシリンダのフィンもボロボロで大失敗だったが、二回目にはなんとか格好のついたものが出来上がリ、関係者は愁眉を開くことができた。
設計も今の根本常務が中心となり順調にすすみ、チェンジは四段に設計変更し、エンジン設計の完了目標を7月20日、車体を7月30日とした。
7月12日、芸大の小池先生以下門下生の栄久庵憲司(現GK所長)、岩崎信治(現GK副所長)、柴田献一(現京都デザインセンター)、曽根靖史(現GKショップ副支配人)、逆井宏(現京都デザインセンター)の六氏が来社、DKWの125CCをモデルとしてヤマハオートバイのデザインが始まった。後にGKデザイン研究所を設立したこの若きデザイナーの諸氏は、始めてとり組むこの分野に対する意欲はものすごく、ユニークな発想を次々に生み出し、当時の常識を破ったいくつかのインダストリアルデザインは高く評価を受けることとなったのである。
7月半ばにはプロペラの工作機械では不足する機械の購入を手配しているので以下記しておく。
ステヘリー生産ホブ盤
ズフイナースーパーフィニッシュ盤
液体ホーニング盤
多軸ボール盤 4台
日立センターレス盤
19待望の試作車完成
7月27日には社内の鉄工課 鋳造工場でシリンダの250CCのNo.1が始めて完成し、DKWに取付けて試運転を実施した。しかし125CCに使用するシリンダは、試作分については外部のメーカーに依頼していた。
内外作手配、工程計画、コスト問題、それに関連して販売価格をどうするか、代理店のマージンは、販売店の体制は、機械の手配は、治工具の準備は、といった具合でテンテコ舞をしている間に刻々と日は過ぎていった。また試作品の進捗に際して、部品の公差をきめるだけでも未経験の関係者にとって大変な仕事だった。
デザインの方もすすみ、8月11日には赤とんぼの愛称の因となったヤマハマルーンの塗色、タンクのサイドのアイボリー色、社マークの七宝製などの方針も決定している。
熱処理もまた未経験のため、かなり失敗したり、いろいろのやり方をトライした。
エンジンの完成予定は8月末であった。悪戦苦闘の試作加工も関係者の努力のかいあって、8月28日エンジンの組立が開始された。
29日にはついに徹夜となったが、明け方に至りようやく待望のエンジンの爆発を聞くことができた。しかしエンジンのクラッチが切れずものにならない。その後二日を費して車体も平行してどうやら格好がついてきた。
いろいろな不具合のところをやり直したり調整したりして、夜の10時になってようやく完成をみることができた。
モデル車の最終決定からたった2カ月余の短期日の間に約束を果し得たよろこびと、新しい商品となるべき試作品を前にして、関係者の眼は赤く充血し、心なしかうるんで見えた。それは未知の世界へ挑戦し、その扉を開くことができた男たちの歓喜と感激の一シーンであった。
場所は日本楽器の工具工場、時に昭和29年(1954年)8月31日残暑きびしい日のことであった。