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やまももの木は知っている ヤマハ発動機創立時代のうらばなし

ヤマハ発動機の技術ストーリーをご紹介します。

20試作車耐久テスト

誕生ということばのかげには、苦しさと耐えることがつきまとうものであり、その代りに無限の喜びと感動を与えてくれるものである。昭和29年(1954年)8月31日の夜、試作車第一号車の完成によって、関係者は文字通り歓喜したものの、いつまでもそうした感傷にひたっている間はなかった。
その翌日からテストが始まったが、ピストン焼付を始めとして、いろいろ問題がで始めた。当然のことながら対策をして解決をはかる。子供がハシカにかかったときのような試練を受けるわけである。こうしたことは我々にとって宿命のようにその後もついて廻るのである。
9月5日、川上社長自らの手によって試作車のテストが行われた。高井部長がハーキュレスに乗って随行、浜松-小松-奥山-三ケ日のコースを走破したところ、故障もなく快調なドライブを終えて帰社されたときは、我々もホッとして胸をなでおろしたものである。今では何でもないような「故障もなく…」といった言葉の意味が、大変重要な意義をもっているほど自信もなければ経験もないのである。
翌日、課長以上の会食の席上で川上社長は「ヤマハがつくった試作車は性能も操縦性もDKWより優れ、ほんとに素晴しい車にでき上った。皆ほんとによくやってくれた」と激賞されたので、関係者は面目を施すことができて、今までの苦労が吹きとんでしまうくらい嬉しかった。
9月7日には試作二号車が完成している。9月8日には浜名湖一周をコースとするテスト計画の打合せが行われた。当時の業界では珍しいと思われる一万kmのテスト計画は、最初からの方針であって、品質的にトップクラスの車を作るのだという強い願望がこめられていたのであった。
それも短期間に行うために、交代勤務の守衛さんを動員し、昼夜兼行で強行することとした。しかし走行に際しての守るべき事項については相当細かく規定し、安全を配慮して開始したのである。
8日の午後、川上社長以下10名で浜名湖一周のテストコースを下検分することになった。終ってみると一周65kmを1時間45分費した。しかし帰ってきたときの姿は、頭から足まで真白、文字通りたたけば埃のでる身体、即ち未舗装時代の景物ともいうべき姿であった。
この日、川上社長から相佐製造部長に対して「オートバイの生産を開始するように―」と正式な命令が出された。それまでは技術部が中心となっていたプロジェクトを、職制を通じて製造のルートに乗せることになったのである。

21事業計画

9月10日、小倉常務を中心として関係幹部でオートバイを企業化するための資金問題、利益計画、販売体制などについて深刻な打合せがもたれた。ここで敢えて深刻という表現をした意味は、当時の資金事情は決してよいものではなく、オートバイを始めるための資金の捻出方法として、一部不動産を売却することも考慮しなければならないほどの事情があったようである。
そんな訳で流動資金面からみると、生産規模は月産150台から200台となる。一面そのような台数では当然コストは高くつくし、一台売る毎に何万円も損することは明白である。
独立会社にすることは、すでに決められている方針である。そこで続々と発生する赤字を独立会社がどこまで背負いきれるか。結局、日本楽器が負担しなければならない。とするとどこまで耐え得るだろうか。大きな悩みはつきない。
一方販売面は日本楽器の各地の支店を動員すれば、当初の台数ぐらいはなんとか消化できるであろうという見通しをもつことができた。現在すすめている試作車10台を10月5日までに作り、さらに増加試作を11月中旬までに20台を追加しようとした。
この日の会議では企業を実現化するため、かなり具体的にそして意欲的に話がすすめられた。
9月11日、ロードテストの試みが行われたが、二号車は一日に387kmを走破したので、これを基に一万kmテストの所要日数を実働26日とハジきだした。
9月13日には当面のすすめ方について社長から指針がでて、先日の案は若干修正せざるを得なくなった。

〇9月中旬までに発表したい。
○増加試作という考え方はやめてすぐ生産に入る。
〇10月は生産準備期間として11月より生産に入る。
〇12月1日より売り出しを始めたい。
○その他
となっており、社長の要請は日程的にかなり無理と思われることも多かったが、今になってみればこうしたことが業務に活力を生み、工夫と協力一致の実があがり、不可能と思われることが、結果として可能となったことなどもその後数多く体験する事ができたのである。

22背水の陣

9月中旬より浜名湖一周テストは始められた。一号車が1,200kmの処で、自社製シリンダが間に合ったので、これを組みこんでテストは続けられた。
9月26日、出張先の東京から帰社された社長は「車を一日も早く発表したい。そのために11月15日までに小松工場の準備を完了するように」その他いろいろの督促があり、生産準備に対するプレッシャーは日増しに上ってきて、時の尊さをヒシヒシと感じる毎日であった。
10月4日には官庁へ正式に届出を行った。
「名称ヤマハ125、車名ヤマハYAMAHA125、機関型式YA-1、機関番号540000」などの内容であるが、YA-1のYはヤマハを意味し、Aは125を表わしている。
10月5日には川上社長自らの手で試作エンジンNo.7の組立をされている。
この一事を以ってしても、社長がいかにこの事業に執念を燃やされていたか、またエンジン構造の本質を体得によって知るという努力をなされていたか、その辺の事情を理解して頂けるものと思う。
同日オートバイ関係者に対して特命辞令がでた。その主な分担は高井部長を中心として、設計は根本、営業は高畠・大野、検査は村上、生産は杉山・伊藤となっており、設計陣は安川・内藤・外山・金子・竹内(十)・安間の諸氏の他に、総務に石川(現ヤマハ車体取締役)、営業に渡瀬(現ヤマハ蒲郡製造常務)の各氏も名を列ねていた。
これによって、我は引込み思案や評論家のような言動は一切できないことになった。新しい企業への船出は誰も経験はないし、自信もない。あるものはただ不安と心の迷いがあるのみである。

いまだに愛用されているYA-1と対面する筆者(昭和52年)

そうした中での特命辞令という厳粛なる事実は「寄らば大樹のかげといったサラリーマン根性や、今までの仕事に対する未練をすて我々の生きる道はヤマハオートバイを以って、企業を確立するしかない。ゼロから再出発するのだ」と意を決し、特命者一同、心を合せて背水の陣でのぞむことになった。
少しオーバーに聞こえるかも知れないが、すくなくとも私はそんな気持ちであった。世の中はオートバイメーカーが相ついで倒産するという不況の嵐が吹きすさんでいただけに。

23一万kmテスト成る

品質のヤマハというイメージを高めるためにも、一万km耐久テストは自ら定めた第一関門である。夜に日をついで埃の中を走りつづけ、風雨を乗り越え、浜名湖の外周道路の悪路に挑戦するYA-1の二号車が一万kmを破走する日がやってきた。

笑顔で出迎える川上社長の前を駆け抜けるYA-1試作車

10月6日午後5時10分、日本楽器の正門守衛所。出迎える社長以下、大勢の人の前にYA-1は拍手に迎えられ紅白のテープを切って入って来た。ライダーは守衛副長の鈴木庄平氏、車は二号車、メーターの針は10,006kmをさしていた。テストを開始して、たったの一ケ月で一万kmテストが完了したのである。
こうして川上社長が打たれた布石は一歩一歩成果をあげていき、新しい企業へ進出するための自信は日増しに深まっていくのである。

東京で行われるYA-1発表会に出席のため、10月8日、社長は試作車3、4、7号車3台を以て、米田・竹内(十)両氏を随行させ雨中を東京に向かって出発された。
今のように東名高速道路がある訳でもないし、不完全な国道一号線を、しかも雨中でも出発された川上社長の鉄の意志といったものを肌で感じたものである。その夜は伊豆長岡で一泊され、翌日東京に向かわれた。
10月12日東京においてヤマハオートバイ125 YA-1の発表会が行われた。場所は神宮外苑、日本青年館において発表と共に試乗会を行ったものである。
当日はあいにく雨天であったけれども、日本楽器がオートバイに進出するというので、期待ともの珍しさも手伝ってか、参会者も100余名を数えるほどの盛会であった。特に注目を浴びたのは商品を並べるというだけでなく、一万kmテスト車を以って、敢えてその真価を世に問うのだといったヤマハの気迫が参会者に伝わったものと思う。
試乗の結果も2サイクル独得の排気音、4段変速の威力を発揮した出足と加速のすばらしさは、キメ細い線の流れを配慮したデザインと共に評価は絶大なものがあった。
どうやら、オートバイ進出という業界に対していった宣言は、見事な演出によって大成功裡に終了したのである。

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