いつの日も遠くヤマハ発動機 開拓時代のうらばなし
ヤマハ発動機の技術ストーリーをご紹介します。
○記載されている企業、団体、地方自治体、施設、社会的な出来事の名称、技術用語や呼び名、漢字表記や送りがな等は以下を除いてすべて発行当時のものです。
・ヤマハ発動機の社内で使われていた略称は、当時の一般的な通称に変更しています。
・一部の年号については西暦を追記し、ウェブ掲載用にレイアウトと数字表記を変更、写真の一部は差し替え、もしくは割愛しています。
ヤマハ船外機のメーカーである三信工業株式会社の社長を最後に会社勤めに終止符を打った時、或る人から、「長い間の会社生活でいろいろな経験をしたであろうから、後輩に残すつもりで社内報に何かを書いてみたら」と勧められた。
ところがいざ書こうと思うと、その時々を一生懸命生きてきたつもりであったのに断片的な記憶しか浮かんで来ない。自分の足跡なんてこんなに頼りないものか。記憶の貧しさにも情けなさを感じた。しかし、たとえ断片的なものでも経験談であるなら多少なりとも興味を持ってもらえるだろうし、また参考になることもあるかも知れないと思い、薄れゆく記憶を辿りながら拙い筆を執ることにした。
私のサラリーマン人生を綴った随筆は、三菱重工業を経て、ヤマハに入社してからの「モーターサイクルの時代」、「四輪自動車の時代」、そして「船外機の時代」の三章に分けて、1991年(平成3年)11月号から八回(隔月)にわたり三信工業の社内報「シー・ブリーズ(Sea Breeze)」に掲載された。これに若干補筆して一冊にまとめ上げたのが本書である。
それにしても、過ぎ去ってみればサラリーマン人生も短いものである。或る時は感激し、或る時は義憤し、また或る時は情熱を燃やして通って来た道ではあるのだが・・・
1993年(平成5年)5月
- 1青天の霹靂(へきれき)
- 2「情けは人の為ならず」
- 3原点は「途上国」にあり
- 4今に引き継がれる「余裕」と「容姿」
- 5常識破りの「プール」が転機
- 6ダイキャスト採用へ
- 7巨人・ブランズウィック社との交渉
- 8マーキュリー社との合弁
- 9同床異夢となった船出
- 10自由と公平を重んじる市場
- 11「合弁」の収穫
- 12社長特命「N計画」
- 13残された「最後の市場」― 夢のアメリカへ
- 14初めてのV型エンジン開発
- 15耐久性で凌駕する
- 16軽量コンパクトが船外機の要
- 17他社に真似ができない技術
- 18一気呵成のアメリカ市場デビュー
- 191983年シカゴショー
- 20アメリカ市場の「洗礼」
- 21「遊び」の先進地で学んだこと
- 22夢見た「最後の市場」での成功
- 23次の市場はスターンドライブ
- 24ボートビルダー買収劇の始まり
- 25風雲急を告げられたヤマハ
- 26日米合作となったスターンドライブ
- 27不況の波に耐え、先駆ける商品を
- 28あとがき