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いつの日も遠くヤマハ発動機 開拓時代のうらばなし

ヤマハ発動機の技術ストーリーをご紹介します。

船外機とともに

18一気呵成のアメリカ市場デビュー

話は多少横道にそれたが、V4の試作ができた頃から、アメリカ市場の情報を収集しておかなければと思い、アメリカの調査会社を使って市場動向の調査を始めた。また技術部からは毎年シカゴのIMTECショーに出張者を数名出し、商品動向も調査していた。これらのデータをもとに、アメリカ向け商品のラインナップ構想が着々と固められていった。その内容は次のようなものだった。

①30馬力以下の小型機種は原則として、今持っている商品で対応する。

②40馬力以上90馬力までは3気筒シリーズとして新開発する(40馬力3気筒はヤマハが世界で初めて)。

③大型機種はV4、V6型のシリーズ開発の新商品とする。

④40馬力以上のラインナップは、全て分離潤滑方式(オイル・インジェクション・システム)をスタンダードとして採用する(ヤマハが世界に先駆けて打ち出したフィーチャー)。

⑤V6型220馬力はヤマハの技術を結集したコンピュータ制御エンジン(船外機としては世界初)として、各種フィーチャーを盛り込む。

⑥塗色グラフィックはアメリカ向けに新しく設定する。

FTC(連邦取引委員会)の提訴により、合弁事業解消の可能性が高まってきた1981年(昭和56年)初め頃から、この計画が動き出した。そして翌1982年にはFTCの勝訴で合弁事業解消となり、いよいよアメリカ市場へ進出するチャンスがやって来た。ついに「1983年秋のシカゴIMTECショーで、アメリカ進出を発表しよう」という目標が出された。

以前から準備はしていたものの大変だった。商品開発は精力的にやった。またそれを受けての生産も大変だった。V4、V6型は前述のように従来とまったく違った生産準備が必要だったし、40馬力から220馬力までの12機種はすべて新商品であり、この生産を一気に立ち上げなければならない。

全社一丸になって物凄いエネルギーをこのプロジェクトにかけた。結果として別表 のように1981年から1983年10月までの僅か3年足らずで、12機種のアメリカ向け新商品の生産まで漕ぎつけた。短期間に今までやったことのない大変な仕事量をこなしたことになる。

3年間で12機種を開発・生産したスケジュール

191983年シカゴショー

そして2馬力から220馬力までのフルラインナップ20機種を揃えて、1983年(昭和58年)秋のシカゴIMTECショーでヤマハ船外機は華々しくデビューを飾った。

私はこの時のショー開幕前に行われたプレスミーティングで「私達は船外機の本場であるアメリカ市場へ出ることが夢だった。今その夢を叶えることができた。皆さん私たちヤマハの船外機を是非見て欲しい」とスピーチをした。長年の夢が叶った嬉しさで一杯だった。苦しかっただけに喜びも大きかった。大事を終えた後の爽快感でもある。

この年のショーはヤマハのブースに多くの人々が集まった。マイクロコンピュータ搭載のV6エンジンも、オイル・インジェクションシステムもなかなかの評判であった。アメリカの業界雑誌の表紙に、ヤマハ175馬力V型船外機2機掛けのボートの写真が掲載された。また有名な雑誌「ボーティング」9月号には「日本の商品がまたやってきた」という主題で、ヤマハ船外機の記事が3ページにわたって紹介された。この記事の中で「ヤマハがアメリカのマリン業界に参入してきたことは良い刺激であり、長い目で業界とユーザーのために非常に良いことである」と結んであった。

船外機としては世界初のマイコン制御イグニッションシステムを採用したV6船外機が評判を呼び、当社の出展は大きな反響をもって報じられた

海外でのV6シリーズへの反響を国内のディーラーに伝える記事(1983年)

YMUS(ヤマハモーターコーポレーションU.S.A.)もアメリカに於ける船外機商売のスタートということで大変な努力をした。特に業界を知りつくしているミスター・ハム・ハンバーガーが、YMUSの船外機担当重役として各方面に骨を折ってくれたことは忘れることができない。もし彼がいなかったらこんなにスムーズにアメリカ市場へは入って行けなかったと思う。

最初のデビューが華々しかっただけに、これからが大変だ。「前評判通りの実績を確実に作ってゆかなければならない」と、YMUSの人たちや駐在員と共に心を引き締めたことを覚えている。

最初のUSディーラーミーティングにて(1983年)

20アメリカ市場の「洗礼」

シカゴのIMTECショーで発表した翌年から、我々はアメリカ市場にヤマハ船外機を売り始めた。その直後、待ってましたとばかりにアメリカのOMC社から特許侵害でITC(インターナショナル・トレード・コミッション)に訴えられた。

我々はアメリカで発表する3年前から、特許係が中心になりアメリカメーカーの船外機の特許を技術部全員で徹底的に調べあげてあった。その数は750点くらいあったと思う。なかでも多少疑念を持たれるものについてはアメリカの弁理士に依頼して確認もしていた。そのため特許に関しては大丈夫だという自信を持っていた。特許侵害がある筈はない。

OMCが訴えた書類を取り寄せると4項目、侵害していることになっている。これらの項目は何れも我々の事前調査に含まれており、こんな馬鹿なことはない。しかし、訴えられた以上は解決しなければアメリカ国内での商売ができなくなる。OMCは侵害していると言って譲らない。裁判で争えば勝てると判断し係争が始まった。

ヤマハ発動機と三信工業はアメリカの一流弁護士3人と日本の弁護士2人の弁護団を形成して、具体的な対策を検討していった。ところが進めば進む程、準備する資料は膨大なものとなり、そのための工数だけでも大変である。

ヤマハ発動機と三信工業でプロジェクトチームを作り、10人以上のメンバーが資料の準備にあたった。しかしやればやる程、泥沼に入っていき、なかなか解決の糸口が見出せない。係争が長引くにつれて分かってきたことは、単に特許そのものが侵害しているか、いないかという理屈だけではなく、もっと他の貿易摩擦を含んだ理由があり、極端なことをいえば、船外機を最初に作ったのはアメリカであり、その船外機にヤマハ船外機は良く似ていることが問題だという議論にまで発展してゆく。特にこの裁判は最終的には陪審員制度により行われるため、判決に陪審員の感情が多分に入ってくることも分かってきた。また、弁護士への支払いも毎月大変な金額であった。

3ヵ月間、お互いの言い分を主張して争ったが埒があかない。OMC側も相当な費用がかかったのであろう。和解の話が出てきた。最終的にはこちらからOMCに和解金を支払うことで決着したが、あのまま争っていたら時間と費用だけでもたいへんな額になっていたと思う。このでき事はまだ早い時だったから良かったが、今後アメリカメーカーとの特許係争はますます数を増し、激しくなってゆくであろう。単なる理論武装ではない特許戦略を立てなければならない時代に入ってきたと思う。

21「遊び」の先進地で学んだこと

アメリカ進出には充分な準備を積み重ねたつもりであったが、実際に市場に参入してみると、特に大型船外機については我々の知らなかった問題に直面した。

例えばオーバーヒートの問題がある。アメリカでは多くの場合スピードを出すために、船外機を船に取りつける際、普通以上にハイマウントにする。そのため冷却水取り入れ孔が水面に近くなり、走行中に水面よりも出ることさえあり、冷却水が充分に回らずエンジンがオーバーヒートする。

またハイマウントすることにより、普通の取り付け時と位置が変わり、水中に入っている足の部分、トピードの形状も不適当な状態になることも判った。これらはスピードを重視する大型船外機にとっては致命的な問題である。技術者チームをアメリカに飛ばし、実態を調べ、技術部を挙げて特急対策を実施することにした。ダイキャスト型まで手を付けなければならない大変な対策であった。

プロペラにしても性能重視の形状にしてあったが、ある条件で船を旋回するとキャビテーションを起こしてエンジンの駆動力が伝わらなくなる。いろいろ調べてみると、市場で評判の良いプロペラは翼の先端を少し内側に曲げたカップ加工を施してあることが判った。このようにアメリカ市場の大型船外機にはいろいろな工夫が施されている。

これらは一例であるが、アメリカ市場に参入し、実際に使われ方を熟知すると、さまざまな対策をしなければならないことが判ってきた。また、ひとつひとつの問題を細かく対策することを通して、どうしてもアメリカにテスト場を持たなければならない必要性を痛感した。それは日本に於けるテストでは高速テストが思うようにできない事と、船の遊び方を良く知っているアメリカ人の評価が必要であり、そのためにアメリカのボートビルダーの協力も欠かせないからでもある。

YMUSのアメリカ人スタッフの協力を得て、テスト場を作る計画が具体的に始まり、1985年にルイジアナに高速テスト場を完成させた。このテスト場はミシシッピィ川のダイバージョンキャナル沿いに設置され、テストはこの運河を使用する。幅70から80メートル、直線2キロメートルもある水路が利用でき、水面も非常に穏やかな素晴らしいテストコースとなった。また、この水路が近くの湖とも繋がっており、高速テスト以外にも、いろいろなテストが可能である。このテスト場は、アメリカでヤマハの大型船外機の性能を高めるために大きな役割を果たしていると思う。

ルイジアナ州に作られたテスト場(全景)

高速テストに使われる水路(ルイジアナ州)

22夢見た「最後の市場」での成功

アメリカ市場では、船外機の性能を充分に引き出すための使い方をユーザー自身がどんどん工夫する。また小さなボートビルダーでもいろいろなアイディアを持っており、それを見てエンジンメーカーが対応を考える。このようにして市場がどんどん活性化していく。アメリカはそういう市場である。常に市場に密着して、その変化を掴み、商品に反映して行かなければならないのである。設計者の頭の中だけで組み立てた商品を作っていると取り残されてしまう。船外機にとって、アメリカは素晴らしい市場である。

アメリカへ進出した1984年はアメリカのボート業界が好況へ向かっていた年で、この景気は1989年までの5年間継続した。この好景気はヤマハ船外機にとっても幸運であった。ヤマハ船外機の高性能も認められていき、三信工業の生産数量も伸び、また生産機種も大型化されて行った。当然ながら売上高と付加価値も増大し、会社の業績も上がっていった。アメリカはヤマハ船外機にとって、最も重要な市場の一つになったのである。そしてアメリカ市場で実績を積み重ねてゆくことによって、三信工業のヤマハ船外機事業は、世界企業として位置付けられるようになっていった。

現在ヤマハ船外機はアメリカ市場でお客様満足度(CS)ナンバーワンの商品になっている。
生産量においてもOMC、マーキュリーと並んで世界を三分している。1991年3月にはヤマハ船外機の生産は生産開始(1960年)以来、生産累計400万台を達成した。世界の三流時代から一流を目指し、OMC、マーキュリーに早く追いつこうと努力してきた道程は長かった。しかしやっと世界一流の仲間入りができたのである。

1991年3月には生産累計400万台を達成したヤマハ船外機

ずらりと並ぶヤマハ船外機(アメリカ市場)

これまでのヤマハ船外機事業の成長を振り返ると3つのエポックがある。ひとつはブランズウィックとの合弁事業、次にN計画と呼んだ生産能力30万台に向けての社内体制作り、もうひとつはアメリカ市場へのアプローチである。

これらは当時の社長がその時点時点において、会社の進むべき目標を全従業員に対して具体的に解かりやすく示し、全員がその目標に向かって燃えていったから達成できたのである。ひとつの目標が達成されると次の目標を示す、それも誰にでもわかるように、しかも、みんなが燃えることができるように、魅力的に示すことの重要性をつくづく痛感させられる。今、ヤマハの船外機事業は次の目標に向けて、もう一度会社の力を結集する時に来ている。

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