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いつの日も遠くヤマハ発動機 開拓時代のうらばなし

ヤマハ発動機の技術ストーリーをご紹介します。

船外機とともに

8マーキュリー社との合弁

両社の合弁の主旨が合意されたのは、ブランズウィックから最初にヤマハへ業務提携の話があってから約一年後の1972年(昭和47年)10月であった。具体的には、三信工業をヤマハ発動機とブランズウィックの2社による合弁会社として新しく発足させることとした。正式な契約をまとめるにはまだまだいろいろと取り決めなければならない項目が残っていたが、主旨が合意されたことで具体的な仕事が始まった。

11月には我々がマーキュリー部門を訪問し、第1回目の技術ミーティングを持った。合弁後の商品計画合議である。ここで次の6項目が合意された。

①商品の性格
ヤマハとマーキュリーの合弁商品は現在ヤマハが生産している製品から始めるが、すべての面で世界的に競争力のある高品質な商品にする。

②商品ラインナップ
最初にアメリカ市場に出す商品ラインナップは2馬力から75馬力までとし、全モデルともジェットプロップ式でCDI付きとする。

③商品の開発体制
マーキュリーは前記モデルをアメリカ市場に適合させるための設計と改良の責任を持つ。

④アメリカ市場向け商品の開発時期
2馬力から50馬力までは1974年(昭和49年)までに完成させる。

⑤大型機種の開発
75馬力の大型モデルは50馬力エンジンを3気筒化して仕上げる。

⑥三信技術部の設立
できるだけ早く三信工業に財政能力に見合った商品開発部門を持たせ、マーキユリーとの技術連絡の窓口にする。

この約束に沿って、1年後に三信工業内にヤマハ発動機第三技術部(船外機の開発部門)の三信分室を設置して業務を開始し、さらにその一年後には第三技術部がヤマハ発動機から三信工業に移管され、正式に三信工業技術部として発足することになる。

以上、これらの打ち合わせ内容からも分かるように、ブランズウィック社としては大変な力の入れようで全面的な協力であった。アメリカを中心とするプレジャー市場についての商品開発技術はマーキュリーが一番進んでおり、その技術に拠って合弁事業の商品を作り上げようということである。

当社船外機の開発・生産の拠点となった三信工業(静岡県浜松市)

9同床異夢となった船出

年明けからヤマハの設計者5名がマーキュリーに駐在し、マーキュリーの技術者とともに開発作業を開始した。最初に着手したのが50馬力の設計と25馬力のジェットプロップ化であった。

一方で合弁契約の詳細検討とその明文化が双方の弁護士も加わって進んでいた。紆余曲折の末、先の技術ミーティングから約半年後の1973年(昭和48年)5月、次のような合弁契約が正式に結ばれた。

1. マーキュリーは三信工業に出資して、ヤマハの出資と同額の三信工業株式会社の新株を引き受ける。これによってヤマハとマーキュリーによる合弁会社としての新しい三信工業が生まれることになる。

2. 合弁契約の期限は10年とする。

3. 三信工業の製品の販売は、日本国内はヤマハブランドとしてヤマハが販売し、北米・オーストラリアはマリーナブランドとしてマーキュリーが販売する。その他の地域は両者がそれぞれのブランドで自由に販売する。

ここで大きな問題が2つ生まれた。

ひとつは合弁契約期限が10年と限定されていること、そしてもうひとつは販売について、北米・オーストラリアはマーキュリーが、日本国内はヤマハがそれぞれ独占販売することである。

合弁に期限があるのは極めて珍しいケースであるが、ヤマハとしては永久に合弁で縛られるのはいやだという意思の現れである。その見返りに北米・オーストラリアの販売はマーキュリーの独占となった。この期限付き合弁が本来の合弁事業のようにお互いの技術を自由に開示することができない原因となり、両社は常に期限が切れた後のお互いの利害関係を考えながら行動しなければならなくなってしまった。

マーキュリーにとっては、10年後に合弁が解消された時、ヤマハが強力な競争相手になることが分かっていたので、社内の技術やノウハウを持っていかれては適わないことになる。そのため合弁の合意ができた当初の積極的な技術協力は、正式契約の時点で手を返したように変化し、大切な技術は一切出さない方向に切り替わってしまった。

ブランズウィック社との初の共同開発モデルとなった水冷2気筒760ccの大型船外機55A(1974年発売)

10自由と公平を重んじる市場

合弁のスタートから5年が過ぎた1978年(昭和53年)に、FTC(連邦取引委員会)からこの合弁についてクレームがついた。三信工業で生産した製品をアメリカ市場ではマリーナブランドでブランズウィックが独占販売するという契約項目についてである。

「これは日本のヤマハがアメリカ市場に船外機を売り出すことを阻止している契約だ。アンフェアであり、アメリカの消費者の選択の自由を制限するものである」というのがその理由であった。日米間の貿易摩擦が問題になっている現在ではとても考えられないことであろうが、15年前はこうであったのかと今さらながら驚くと同時に、本来アメリカは自由貿易と消費者優先の基本政策を持っている国なのだと思う。

この事件は提訴から4年後にアメリカ国内での裁判の結果、最終的にはFTCの主張が通り、ヤマハとブランズウィックの合弁契約は期限1年を残して合弁開始後9年目の1982年(昭和57年)に解消された。

この2、3年後から日本の対米輸出に対してアメリカの世論が厳しくなってくるのだから皮肉なものである。以上のような推移で合弁は解消され、ブランズウィック所有の三信工業の株をヤマハ発動機が買い取り、三信は元のヤマハ発動機の子会社に戻った。

11「合弁」の収穫

この合弁の成果を考えてみれば、ブランズウィックは小型機種のラインナップが充実し、マリーナブランドの販売を開始することによって市場の実績を作り、ふたつのブランド販売網の確立ができて初期の目的を達成した。ヤマハ、三信としても、充分とは言えないまでも個々の技術の取得ができた。

けれども今振り返ってみて、合弁で我々が得た一番大きなものは何かというと、船外機事業における世界のトップレベルの会社の規模とその中身を実感として掴むことができたこと、それによって我々の目標を具体的に立てることができたことだと思う。向かうべき目標が具体的に判ることがいかに重要なことであるかを再認識した出来事であった。

合弁後の商品はアメリカ市場を意識したプレジャー志向の性格が強くなって行く。プレジャーエンジンは従来の漁業用・業務用エンジンと比べると、軽くてコンパクトであることが要求されるが、ひとつの商品でプレジャー用と業務用の両方に適した性能を作り出すためには自ずと限界がある。そうかと言って機種をどんどん増やすことは混乱を招きかねない。いろいろ考えた末、できるだけ機種の整理をしたうえで、プレジャー系列と業務用系列の2本立ての商品ラインナップを作る方針を立てた。仕事は大変だったが思い切って実行した。

用途別の2つのラインナップ構成は船外機業界ではヤマハが初めてである。そのためヤマハは他のメーカーの倍の機種を持つことになったが、これにより商品の性格が明確になり、生産量も機種の増加にともなって伸びていった。日本経済の成長期であったことも幸いし、この方針は大きな効果をあげた。現在もこの考え方は商品開発に継承されている。

OMCも我々に続き、7、8年後からワークモデルの生産を開始したのである。合弁ではいろいろなことを学び、先進市場への挑戦は苦しいことが多かったが、一方で一般地への輸出が伸びたことと、マーキュリーが三信工業で作った船外機をマリーナブランドで販売したこともプラスして、三信工業の生産量は年間20万台に近づいていった。

1978年には船外機の累計生産100万台を達成(写真は1978年の東京国際ボートショー)

出荷の時を待つ当社の船外機(写真は浜松工場)

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