特別展示コーナー
2011年 企画展 Vol. 1
YAMAHA Grand Prix Racing 50th Anniversary
世界グランプリへの挑戦 1961-2011
1965 RD56
RD48の後継モデルとして開発されたGP250ファクトリーマシン。ロータリーディスクバルブ吸気、フロート室別体式キャブレター、強制潤滑方式採用の2ストローク・空冷・並列2気筒エンジンを磨き上げ、クロームモリブデン鋼管製の新設計フェザーベッド型ダブルクレードルフレームに搭載。足まわりもサスペンションやブレーキを強化し、1962年、デビューレースとなった第1回全日本選手権ロードレース(鈴鹿)で3位入賞を果たした。
そして翌'63年、いっそうの軽量化と変速段数変更(6速→7速)を行い、世界GPに参戦。ベルギーGPで念願の初優勝(伊藤史朗)を飾ると、その後も'65年まで進化を続け、最終仕様では最高出力55PS、最高速度220km/hを実現。'64・'65年連続のライダー(フィル・リード)/メーカーチャンピオン獲得に貢献した。
■GP250通算15勝
1963年: |
伊藤史朗/ベルギー |
1964年: |
マイク・ダフ/ベルギー |
1965年: |
マイク・ダフ/フィンランド |
● Engine type: Air-cooled, 2-stroke, in-line 2-cylinder, 249cm3 ● Rotary disc valve intake ● Transmission: 7-speed ● Maximum power output: Over 36.8kW(50PS)/ 11,000r/min ● Overall length × width × height: 1,947 × 500 × 1,092mm ● Wheelbase: 1,315mm ● Weight: 115kg
1968 RA31A
2ストローク・V型4気筒エンジン搭載のGP125ファクトリーマシン。1961年、空冷・単気筒のRA41で125ccクラス参戦を開始したヤマハ発動機は、'65年マン島TTに水冷化したRA97(2気筒)を投入し、待望の初優勝を飾った。しかしタイトルには届かず、世界GP全体で進行する多気筒化の波に押され、250ccのRD05をスケールダウンした水冷・V型4気筒のRA31を開発。'67年、ビル・アイビーとフィル・リードのライディングで10勝を記録し、メーカー/ライダー(アイビー)チャンピオン獲得に貢献した。
'68年開幕戦から登場したRA31Aは、250ccのRD05Aと同様、RA31をさらに軽量化した後継モデル。シリンダー挟み角60度の新設計エンジンをキャスター角可変式・フェザーベッド型ダブルクレードルフレームに搭載し、ヤマハのメーカー/ライダー(フィル・リード)タイトル連覇を支えた。
■GP125通算8勝
1968年: |
ビル・アイビー/アイルランド(アルスター)、イタリア |
● Engine type: Liquid-cooled, 2-stroke, V4-cylinder, 124cm3 ● Rotary disc valve intake ● Transmission: 9-speed ● Maximum power output: Over 32.4kW(44PS)/ 16,800r/min ● Overall length × width × height: 1,835 ×500 × 1,015mm ● Wheelbase: 1,240mm ● Weight: 91kg
1968 RD05A
2ストローク・V型4気筒エンジン搭載のGP250ファクトリーマシン。世界GP全体が多気筒・高出力化の傾向を強めるなか、ヤマハ発動機も実績のあるロータリーディスクバルブ吸気を生かし、十分なバンク角が確保できる多気筒エンジンを模索。125cc・並列2気筒を上下二段重ねにする発想で、シリンダー挟み角70度、二軸クランクのV型4気筒にたどり着いた。そして1965年終盤、イタリアGPに空冷と水冷2台のRD05を投入。決勝はフィル・リードが空冷モデルに乗り、雨の中オーバークールでノーポイントに終わったものの、期待どおりの加速・高速性能を垣間見せた。その後'66年、水冷に一本化されたRD05だが、空冷と共用設計のエンジンは背が高く、重いため操縦性に難を残し、RD56に続くGP250連覇はならなかった。
そこで後継モデルRD05Aは、エンジン設計を一新。挟み角変更(60度)、各部の徹底的な肉抜きと省スペース設計により、大幅な軽量化と低重心化を果たした。また車体は、フェザーベッド型ダブルクレードルフレームのパイプ径拡大、角型リアアーム採用で剛性をアップ。さらにヘッドパイプをキャスター角可変式とし、コースごとのセッティング最適化に対応した。これらの成果はめざましく、'67年タイトル奪還こそ果たせなかったが、リードとビル・アイビーで年間6勝を記録。翌'68年には10勝を挙げ、ライダー(リード)/メーカーの二冠を制した。
■GP250通算16勝
1967年: |
ビル・アイビー/フランス、ベルギー |
1968年: |
ビル・アイビー/西ドイツ、マン島TT、オランダ、東ドイツ、アイルランド(アルスター) |
● Engine type: Liquid-cooled, 2-stroke, V4-cylinder, 249cm3 ● Rotary disc valve intake ● Transmission: 8-speed ● Maximum power output: Over 53.7kW(73PS)/ 14,000r/min ● Overall length × width × height: 1,930 ×500 × 1,045mm ● Wheelbase: 1,315mm ● Weight: 115kg
2004 YZR-M1(0WP3)
スロットルのリニアリティ向上と操縦安定性向上をテーマに開発したMotoGPファクトリーマシン。エンジンは、最高出力よりも出力・トルク特性に重点を置き、不等間隔爆発のクロスプレーン型クランクシャフト、FI機能を最大限に引き出す4バルブ燃焼室などを採用。さらに、エンジンブレーキ特性・感覚を調整するアイドルコントロールシステムや運転状況の変化にも対応するエンジンマネジメントシステムの熟成を行い、トラクション効率とコントロール性を高めた。
フレームは、従来モデルのハンドリング特性を生かしながら、フロントタイヤの接地感や安定性を重視してジオメトリーを最適化。また旋回中の横G変化に対するサスペンション性能安定化をはかるため、横剛性をやや低く設定したほか、リアアームを延長し、エンジン懸架位置を相対的に前進させた。
2004年、移籍してきたばかりのバレンティーノ・ロッシは開発テストで0WP3の著しい進化に触れ、「Sweet!」と表現。開幕戦・南アフリカGPでもいきなり優勝を果たし、愛車にキスを贈った。そして年間9勝を挙げたロッシと0WP3は、ヤマハ初のMotoGPチャンピオンに輝いた。
■MotoGP通算9勝
2004年: |
バレンティーノ・ロッシ/南アフリカ、イタリア、カタルニア、オランダ、イギリス、ポルトガル、マレーシア、オーストラリア、バレンシア |
● Engine type: Liquid-cooled, 4-stroke, DOHC 4-valve, in-line 4-cylinder, 990cm3 ● Transmission: 6-speed ● Fuel supply: Fuel injection ● Maximum power output: Over 176.5kW(240PS)
1969 RF302
1969年導入の新しい車両規定に基づいて開発された、ヤマハ発動機初のGP50ファクトリーマシン。水冷・2ストローク・単気筒・6段変速エンジンを搭載し、17PS・170km/h以上の性能を実現したが、ファクトリーチームの世界GP撤退により、1度もレースを走ることはなかった。
● Engine type: Liquid-cooled, 2-stroke, single-cylinder, 49cm3 ● Rotary disc valve intake ● Transmission: 6-speed ● Maximum power output: Over 12.5kW(17PS)/ 14,500r/min
1975 YZR350(0W24)エンジン
並列2気筒のYZR350(0W16)後継モデルとして開発されたGP350ファクトリーマシン。より軽量・高出力を追求し、エンジンはYZR500(0W23)の並列4気筒をベースに、ボア×ストローク:49×46.2mm、シリンダーピッチ92mmのコンパクトサイズで新設計。さらにフレームも斬新なボックス型の燃料タンク一体式モノコック構造とし、軽量・低重心・高剛性を実現。テストで最高出力84PS、最高速度268km/hを記録したが、実戦投入には至らなかった。
● Engine type: Liquid-cooled, 2-stroke, in-line 4 cylinder,348cm3 ● Piston valve intake ● Transmission: 6-speed ● Maximum power output: 61.8kW(84PS)/ 13,000r/min
1983 YZR500(06K):写真左奥
背面ロータリーディスクバルブ吸気・V型4気筒エンジン搭載の1983年型YZR500(0W70)をベースとした先行開発マシン。ボトムリンク式モノクロス・リアサスペンションの実戦投入と熟成に向けて、フレームや足まわりの改良・試作テストを行った。カウリングなどの外装は、'83年全日本500ccマシンのもの。
● Engine type: Liquid-cooled, 2-stroke, V4-cylinder, 499cm3 ● Rear rotary disc valve intake ● Transmission: 6-speed ● Maximum power output: Over 88.3kW(120PS)/ 11,000r/min
1980 001Aエンジン
4ストロークGPマシンの可能性を探るため試作した500cc・V型4気筒・7バルブエンジン。1977年東京モーターショーに参考出品したYZR1000(0W34)のV型4気筒・4バルブをベースとして、吸排気・燃焼効率向上をめざし、多バルブ化を検討。最適な燃焼室形状が得られる7バルブ(吸気4・排気3)採用と、大径・超ショートストローク設計で約2万回転、125PSを実現した。さらに横幅をスリムに保つ、独自の2ステージ式背面カムギア駆動なども開発。これらの経験、技術が後のFZ750・5バルブエンジンを生んだ。
● Engine type: Liquid-cooled, 4-stroke, DOHC 7-valve, 90° V4-cylinder, 499cm3 ● Bore × stroke : 70 × 32.4mm ● Transmission: 6-speed ● Fuel supply: Twin barrel carburetor × 4 ● Maximum power output: Over 91.9kW(125PS)/ 18,000r/min
2000 OW-M1
扱いやすいエンジン特性と車体特性の実現をテーマに開発したMotoGPマシン、初代YZR-M1の試作モデル。フレームは実績のあるYZR500をベースとし、エンジンも搭載時のバランスに優れ、またスーパーバイクレースなどで長い技術進化の歴史を持つ並列4気筒を選択。さらに排気量は、パワーと扱いやすさのバランスを考慮し、942cc(上限990cc)に抑えた。名称は開発コード「0WM1」に由来し、2001年、「YZR-M1」と改称。「M」は、MotoGPチャンピオンを獲得する「使命(Mission)」を表わす。
● Engine type: Liquid-cooled, 4-stroke, DOHC 5-valve, in-line 4-cylinder, 942cm3 ● Transmission: 6-speed ● Fuel supply: Carburetor ● Maximum power output: N/A
2010 YZR-M1(0WS9)エンジン
ライダーの能力とマシン性能をお互い最大限に引き出す(マン・マシン・コラボレーション)ため、車体、エンジン、エンジンマネジメントの3点を基準に熟成させたMotoGPファクトリーマシン、0WS9のエンジン。使用個数制限に対応し、シーズン中も「耐久性の向上と中速域の改良」「さらなる耐久性向上」「さらなる動力性能向上」をテーマに、スペックAからCへ3段階で進化。1基平均1,500km以上の走行に耐える信頼性と性能を発揮し、ヤマハ発動機の3年連続三冠獲得を支えた。
● Engine type: Liquid-cooled, 4-stroke, DOHC 4-valve, in-line 4-cylinder, 800cm3 ● Transmission: 6-speed ● Fuel supply: Fuel injection ● Maximum power output: Over 147.1kW(200PS)
つねに良きライバルとして競い合ったホンダとヤマハの関係を、5つの時代に分けて対比した特別展示です。
協力:ホンダコレクションホール
激闘!勝つのは2ストか、それとも4ストか!!
1960年代の世界選手権ロードレースはエンジン形式を巡って勢力が二分していた。SUZUKI、BULTACO(ブルタコ)、MZは2ストローク。Aermacchi(アエルマッキ)、Benelli(ベネリ)は4ストローク陣営だった。優位なのは2ストロークか、それとも4ストロークか・・・。その答えを導くべく、YAMAHAは空冷2ストローク2気筒エンジンを搭載するRD56を投入した。1964年にはフィル・リードの活躍で初の世界制覇を達成。翌年もタイトルを獲得し、「2ストロークのYAMAHA」と言わしめた。
4ストロークを採用するHondaは多気筒・高回転型エンジンで対抗する。1966年にMV Agusta(MVアグスタ)から移籍したマイク・ヘイルウッドにRC166を託した。優れたトップスピードを武器に開幕8連勝を含むシーズン10勝を挙げ、圧倒的な強さでタイトル奪取に成功した。YAMAHAは水冷V型4気筒のRD05を投入するも苦しいシーズンを送ったが、最終戦の日本GPで長谷川弘が世界の強豪を従えて優勝を飾った。
真の激闘は1967年。YAMAHAとHondaの一騎打ちとなった。YAMAHAは小型軽量化されたRD05Aを登場させ、再び世界の頂点を目指した。史上稀に見る接戦を展開した両メーカーは全13戦の優勝を分け合った。Honda7勝。YAMAHA6勝。まさに互角。チャンピオン争いもヘイルウッドとリードが50ポイントで同点。優勝回数の差でヘイルウッドに栄冠が輝いた。この年でHondaは活動休止を宣言する。
1968年はRD05Aの独壇場となる。全10戦中10勝のパーフェクトウィンを達成。再び王者に返り咲いたのだった。まさに「偉業」と言って過言ではない。このYAMAHAの活躍が後の2ストローク全盛時代の礎となった。
年式 | 製品名 |
1966-67 | |RC166/Honda| |
1967-68 | |RD05A| |
異次元バトル ~2人だけに許された場所~
1983年は後世に語り継がれる壮絶な戦いとなった。YAMAHAのケニー・ロバーツとHondaのフレディ・スペンサーの実力が拮抗し、タイトルの行方は最終戦まで持ち越されることとなる。当時はワークスマシンを手にするライダーが多く、シーズンを通じて混戦が予想されたが、2人の速さは特出していた。
1978年から3年連続でGP500クラスを制した“キング・ケニー”は4度目の世界制覇を目指すが、新進気鋭の“ファスト・フレディ”が開幕から破竹の3戦勝を飾り序盤をリード。第4戦西ドイツGPでロバーツが優勝するが、その後は交互に勝ち星を分け合う。このままスペンサーの逃げ切りかと思われた。しかし、“キング”の反撃は第8戦オランダGPから始まった。怒涛の3連勝で最大25点あったポイント差は2点にまで肉薄した。
第11戦スウェーデンGP。シーズンを象徴する死闘を演じる。最終ラップ、ストレートエンドの第7コーナーでドラマが起こった。トップを死守するロバーツの背後からスペンサーが仕掛ける。ブレーキングを極限まで遅らせ、YZR500のイン側にNS500が飛び込んだ。トップに浮上。続く最終コーナーで襲い掛かる“キング”を退けてチェッカーを受けた。
迎えた最終戦サンマリノGP。ロバーツがタイトルを手にするにはチームメイトのエディ・ローソンの2位入賞が必須条件。レース序盤に首位に立ったロバーツは巧みにスペンサーを抑え込むが、3位を走行するローソンは遥か後方で援護に入れない。状況を理解した“キング”はラストスパート。スペンサーに並ぶ6勝目でシーズンを締めくくった。
スペンサー144点。ロバーツ142点。僅か2点差でチャンピオンが決定した。表彰台の中央に立つ事が許されたのは2人だけ。誰も彼らに割って入ることは出来なかった。いかに高いレベルでしのぎを削ったかが伺える。
年式 | 製品名 |
1983 | |YZR500(0W70)| |
1984 | |NS500/Honda| |
超新星現る! 迎え撃つトップランカー達
1990年、ケニー・ロバーツの秘蔵っ子ジョン・コシンスキーが満を持して世界選手権ロードレースにフル参戦を開始した。前年には日本GPと母国アメリカGPで優勝を飾り、誰もがその才能に脅威を感じていた。迎え撃つは同じYZR250を駆るルカ・カダローラ。Hondaはカルロス・カルダス/ヘルムート・ブラドル/ウィルコ・ヅィーレンベルグ/清水雅広らにNSR250を託した。
開幕戦の日本GPでコシンスキーがつまづく。ピットインが響き14位でレースを終える。優勝はカダローラだった。失意のまま日本を去ったコシンスキーだが、第2戦から3連勝をマーク。第9戦までに5勝を挙げ、堂々とポイントリーダーに立っていた。カダローラも第6戦オーストリアGPで直接対決を制すなど目覚しい活躍を見せていた。そんな状況下で虎視眈々とチャンスを伺っていたのがHondaのカルダス。安定したライディングで上位入賞を続けていた。
シーズン中盤にコシンスキーが2戦連続でリタイヤすると、カルダスが一躍ランキング首位に踊り出たのだ。1発の速さに定評のあるカダローラはレースを落とすことが多く、波に乗れずにいた。カルダスは2人の失速を横目に着実にポイントを稼いでいった。
残り2戦となった第14戦ハンガリーGP。コシンスキーは渾身のライディングで優勝。その差を5ポイントまで詰め、最終戦に望みをつなぐ。迎えたオーストラリアGP。勝つことだけを信じて走り続け見事に連勝を飾った。対するカルダスはラスト2周で痛恨のマシントラブル。リタイヤを喫した。激闘の末にタイトルはコシンスキーの頭上に輝いた。
翌年カダローラはHondaへ移籍。NSR勢は15戦中13勝する圧倒的な強さを誇った。チャンピオンの栄冠は8勝を挙げたカダローラに。GP125クラスに続く2階級制覇となった。
年式 | 製品名 |
1990 | |YZR250(0WB9)| |
1991 | |NSR250/Honda| |
王者レイニーVS若武者ドゥーハン
YAMAHAのエース、ウェイン・レイニーは1990年に悲願のシリーズチャンピオンに輝いた。「打倒レイニー」を合言葉にSUZUKIのケビン・シュワンツやHondaのワイン・ガードナーが果敢に戦いを挑む構図が出来上がる中、1989年にHondaワークスに迎え入れられたミック・ドゥーハンは着実に力をつけていた。フル参戦2年目の第14戦ハンガリーGPで初優勝を飾り、自らのポテンシャルの高さを証明してみせた。
しかし、レイニーの速さと安定感は群を抜いており、その後もライバルを圧倒する強さを発揮。ランキングが有効ポイント制となった1991年は勝率が5割に迫り、表彰台獲得率は何と100%であった。ドゥーハンも3勝を挙げるが、その牙城を崩すには至らなかった。
迎えた1992年シーズン。勢力図に大きな変化が起こる。ドゥーハンが覚醒したのだ。開幕から怒涛の4連勝を達成し、ランキング1位でシーズンを折り返した。レイニーは前年の最終戦で負った怪我が完治せず苦戦を強いられていた。ところが、第8戦オランダGPで事態は一変する。予選2回目でドゥーハンが転倒。右足を骨折し戦線離脱を余儀なくされた。最終戦までもつれ込んだタイトル争いは、調子を取り戻したレイニーが大逆転を演じ、3年連続で王者に君臨することとなる。
「真のチャンピオン決定戦」と謳われた1993年は残念なシーズンとなった。第12戦イタリアGPをポイントリーダーで迎えたレイニーが転倒負傷し、選手生活にピリオドを打った。怪我の癒えないドゥーハンは僅か1勝に終わったが、翌1994年に見事タイトルを獲得し、王者の称号を継承することとなった。ドゥーハン時代の幕開けである。
年式 | 製品名 |
1993 | |YZR500(0WF2)| |
1994 | |NSR500/Honda| |
初代チャンピオンの栄冠を求めて
世界選手権ロードレースは2002年に大きな変化が起こった。最高峰クラスがGP500から4ストローク990cc以下の車両で競う「MotoGPクラス」へ移行した。開幕戦となった日本GPには4メーカー(YAMAHA/SUZUKI/aprilia/Honda)が威信をかけて開発を進めたモンスターマシンが登場。鼓膜を震わすワイルドなエキゾーストノートは多くのファンを魅了し、新たな時代の1ページが始まった。ワークス活動を休止していたKawasakiは、第13戦パシフィックGP(ツインリンクもてぎ)からZX-RRの実戦投入を開始した。
前年のGP500クラスを制したバレンティーノ・ロッシを筆頭に、RC211Vを駆るHondaライダーが開幕から好調をキープ。第2戦南アフリカGPで宇川徹が優勝したが、それ以外、第9戦ドイツGPまでは全てロッシがトップチェッカーを受け続けた。また、シーズン途中からは加藤大治郎やアレックス・バロスにもRC#211Vが貸与されることとなる。
迎えた第10戦チェコGP。レースを支配したのはYAMAHAのマックス・ビアッジだった。予選でポールポジションを獲得すると、決勝では一度も首位を明け渡すことなく、シーズン初優勝を飾った。付け入る隙のない完璧なレース運びでHondaの連勝にストップをかけた。
最終的にRC211Vは16戦中14勝を挙げた。初代MotoGPチャンピオンには11勝をマークしたロッシが輝く。これで「GP125/GP250/GP500/MotoGP」と4つのクラスでタイトルホルダーとなった。Honda勢に真っ向勝負を挑み、優勝2回、孤軍奮闘のビアッジの活躍も賞賛に値する見事なものだった。
年式 | 製品名 |
2002 | |YZR-M1(0WM1)|RC211V/Honda| |