やまももの木は知っている ヤマハ発動機創立時代のうらばなし
37浅間高原レース
昭和30年(1955年)9月18日には浅間高原レースに練習用車体6台を送り、19日にはレース用第一陣、小長谷・岡田・日吉の3名のライダーを村上(富)課長が引率して出発した。
浅間高原レースというのは、日本モーターサイクルレース協会の主催で、後援は通産・運輸・建設・外務の各省、長野・群馬の両県、自動車技術会というもので、国産オートバイの性能向上をはかることを目的として、正式名は「第一回全日本オートバイ耐久ロードレース」として行うことになったものである。
ヤマハが出場できるウルトラライト級(125ccまで)のほかライト級、ジュニア級、シニア級の4種目であり、富士登山レース優勝の余勢を駆って、新参メーカーながらヤマハには絶対に優勝しなければならないという十字架が背負わされていた。
八幡の研究所内のレース用エンジン開発が進められる一方、浅間の現地では着々と体制づくりが行われていった。レーシングチームの監督には、赤とんぼの販売に活躍したハリキリセールスマンの渡瀬善三郎氏(現ヤマハ蒲郡製造・常務)が登用された。
ホンダは富士レース直後、浅間高原と軽井沢に合宿所を設け、すでに猛練習に入っていた。そこで渡瀬監督は秘密裡に合宿所を設けるために、貸別荘を探し廻り、遂に浅間養狐園というところを合宿所にすることに成功した。当初はカラーフィルムの会社と偽り、契約に成功した後、秘密を守るための手段としての偽りであったことを告白し、養狐園の主人とかたく手を握り合うくだりは、渡瀬氏の真骨頂ともいうべきものであった。
第一回の浅間高原レースは一般の公道を使用し、北軽井沢運動場前を出発点として、浅間牧場入口まで登りのコースをたどり、それから左折して黒豆河原を横断して、峯の茶屋より鬼押出しを経由して、北軽井沢まで帰ってくる一周約19.2kmのコースである。熔岩の吹き出したデコボコの悪路を砂けむりを上げて、公道をレーサーが走り廻る姿は、今では考えられないことである。
ヤマハの合宿所は、コースに沿っているので、敵のタイムをはかり、その性能をつかむのには実に効果的であった。レース場に各社が集っての練習は、駆けひきや陽動作戦、敵情をつかむためのスパイ的行動など、避暑地としての静かな北軽井沢をレースの阿修羅の渦の中に巻きこんでしまった。
本杜への連絡に際しても、秘密を守るためにずいぶんと神経を使った。ヤマハの名を隠すためにはうっかリ電話もかけれないし、手紙もだせない。小さな町のことであるから、どこからどこへ情報が洩れるかもわからない。現地部隊の苦心もたいへんだった。
本隊が乗りこんでからのヤマハの練習もかなり活発となったので、各社の心胆を寒からしめたようである。練習は朝の4時に起床、牛乳と生卵2個による軽い朝食をして体操の後、練習に入る。各社が眼をさます頃には練習が終っており、午後は3時頃から再び練習に入る。機先を制した作戦は実に合理的に、かつチームワークよく、テクニックは磨かれていった。
38後方補給部隊の対応
浅間における練習が本格的になるにつれ、現地から後方補給部隊である本社への要請は、ますますきびしさを加えていった。前に述べたように熔岩石地帯の岩石の間を飛び廻っているようなものであるから、フレームのパイプが折れるという問題を始めとして、その対策にはたいへんな苦労をしたものである。対策をしてはすぐこれを現地に送りこむ。それですぐテストに入る。こうした繰返しを間髪を入れずにやることが、勝敗の優劣に大きく左右するものである。
10月28日に本番用車体5台、29日には本番用最後の5台を浅間へ送りこんだ。エンジンは特殊のアイデアを盛りこんだ小野式、中谷式の二通りに分かれていた。間際になってからもタイヤの補給は激しく、タンクのコックの付け根の油洩れ対策12個を緊急製作して送りこんだのは、レース3日前のことである。
11月2日夜半、即ち文化の日の3日の0時半に浅間より緊急電話が入った。何が起こるかわからんということで、会社で待機していた私は受話器をとると、会社幹部はほとんど浅間につめかけており、性能のことと対策で喧喧ごうごうと会議している席上からである。
要点は「エンジンの性能は微妙であるため、気圧や気候の関係で苦しんでいる。八幡の研究所の中の倉庫にエンジンが4台あるから、工場にある新しいエンジン3台と合わせて、至急送ってほしい。もう時間的な余裕はないから、夜中で悪いけれどもすぐ入院中の社長を訪ねて許可をもらい、玉木運転手に頼んで乗用車で送ってほしい」ということである。
さっそく夜半の2時、日本楽器の診療所に入院されている川上社長を訪ねた。深夜のことであるので社長も「何か起きたか」とびっくりされた様子だったが、いきさつを申し上げ、乗用車派遣の件の許しを頂いた。社長に心痛を与えることは重々わかっていたが、とっさの処置のため、細かい配慮をしている余裕はなったのである。
さっそく玉木運転手を呼びだすと共に、八幡の倉庫ヘエンジンを探しにいった。ところがこの研究所の中は、機密を守るために、私も入室できなかったので、さっぱり勝手がわからない。しかし懐中電灯を頼りにようやく目的のエンジンを探しだすことができた。
朝の4時頃、玉木運転手はエンジン7台を乗せ、日本楽器の正門を出発し、浅間に向って急行した。間際の間際まで最後のエンジンを送りだすという富士レースと同じような場面に遭遇した私は、神がかり的に必勝を信じて、間もなく黎明を告げんとする未明の中を去っていくトヨペットクラウンの後姿に、心の中で手を合せたのであった。
39浅間高原レースに優勝
レースの前夜も浅間の現地部隊は、徹夜して車の整備に没頭し、当日に備えた。レースは、午前9時からライト級が開始された。30秒おきに2台ずつ出発、19.2kmをヤマハのでるウルトラライト級は、4周するのである。出場するもの8社28台で、午後1時半から開始された。
レース本番の前日の公開練習中に、益子選手が転倒し、骨盤骨折するというアクシデントがあったが、そういうときに本社から派遣された「にんにく先生」の異名を頂いた後藤医師の活躍がものをいった。11月の浅間高原の朝は霜も降り、秋も深くなっており、日中といえども肌寒い。晴れ渡った秋空のもと、浅間の山麓に繰り広げられた各メーカーの威信をかけての闘いは続けられた。沿道で見ている観客もタイムレースのために、勝敗はわかりにくい。
ヤマハの125は、アブが羽ばたくような金属音を残して、高原のすすきをなびかせて通り魔のように走り抜けていった。1周2周3周目と全車通過したが、それまで最高の成績を挙げていた野口種晴選手が、エンジントラブルで棄権するの止むなきに至ったのは、かえすがえすも残念なことであった。
長くて苦しい激闘は終った。結果は圧倒的な勝利で、ヤマハに栄冠が輝いた。1位・日吉昇、2位・小長谷茂、3位・望月修、共にヤマハである。各選手は、富士レースの白いツナギ服と異り、黒い皮のレーサー服にヘルメットの格好よい姿で、胸を張って表彰台に立った。
日本楽器東京支店を中心に、全国から駆けつけた代理店などの多数の応援団は、抱き合うばかりの歓喜にひたった。その夜、本社でその朗報を受けた私は、さっそく入院加療中の川上社長を訪ね、その結果を報告したところ、執念の勝利を獲得した川上社長は、真から喜ばれていた様子であった。
思えば富士レース直後、今日をめざして色々のことに手を打たれた川上社長は、その作戦が見事に適中して、この成果を挙げることができたのであるから、文字通り本懐だったろうと拝察したのである。創業数ケ月でこの二つの国内レースに優勝することによって、数ではたかだか月産300台ぐらいの小メーカーが、一躍脚光を浴びることになり、何か大メーカー的な扱いまで受けるようになった。レースの持つ意義をしっかり確認することができたのである。
11月7日、ヤマハの選手団は意気揚々と浜松に凱旋した。ヤマハオートバイ50台により、浜松駅から日本楽器正門まで、市中パレードが行われ、その夜は日本楽器の清風荘において、社長主催の浅間レース戦勝祝賀会が催された。営業はこの戦勝に力を得て、各地で浅間レース優勝車を持ち廻り、宣伝と拡販に力を注いだが、販売の台数は伸びず、月200台がその限界であることを感じ始めていた。
40YC-1登場
125ccのYA-1だけでは商売にはならない。175ccを第二弾の商品として試作を進めていたことは、前にも述べた通りであるが、一方もう少し価格の低い125ccの普及型の要請も強かった。またチェーンケースを全密閉型にせよという要望も出てきて、2年目の商品計画も随分悩み、激論が闘われたのである。
いろいろ試作してみても、結局はオリジナルのYA-1型の簡素にして美しいこのデザインをぶち壊すことはあっても、それに優る商品を出現させることはできなかった。いまだに名車といわれる原因がそこにあったと思う。しかし175ccの試作は順調に進み、そのデザインもGKグループが、DKWのRT175をモデルにしながらも、デザインの自由度を与えられて、YA-1の学習作に比べて習熟作になったといわれる傑作を生みだすのである。
175ccの試作車は社長の指示によって、富士のコースに送り込まれ、高井部長・根本課長指導のもと、初冬の富士をバックに、浅間レースに優勝したライダーたちによって、テストがくり返された。価格もYA-1の反省もあって、随分もめたところであるが、最終的には14万5千円に決定している。
昭和31年(1956年)を迎え、YC-1の生産は本格的に開始された。最初の組立車の品質評価で一番困ったのは、プライマリーチェーンのヒューンといううなり音であった。1月25日、何とか格好のついた一号車を持って清風荘に社長を訪ね、恒例により社長の手に依って、No.1の刻印が実施された。「乗ってみたいなあ。今年はこれで飯を食わなければならない。皆頑張って下さいよ」川上社長の実感のこもった発言に、社長の真情を思い、立ち会った私どもの握りこぶしは自然と固くなっていき、眼は自ずと輝いていった。
昭和30年(1955年)の暮のこと、当時組合はなかったが、従業員代表との間に、暮の賞与として1.43ケ月、2万1千17円が話し合いの場で決定をみていた。経営は当然苦しかったが、これが当時の世間相場並であった。この年の秋には、35万kWの出力を誇るわが国最大の佐久間ダムが完成し、自民党が結成され、一方造船・鉄鋼・海運が空前のブームを呼んだ時期でもあり、片や戦後最高の不渡り手形の枚数が記録されたときでもあった。
社長のいわれたように、「これで飯を食わなければならない」即ち、昭和31年はYC-1が文字通り活躍する年になっていくのであり、YC-1には社運がかかっていたのである。