やまももの木は知っている ヤマハ発動機創立時代のうらばなし
32富士登山レース優勝
レースは多くの観客をエキサイトさせ、しびれさせ夢中にさせるものであるが、その陰にライダーの恵まれた天分に加えて、血のでるような訓練によって培われたテクニック、その車の性能を芸術的に表現する技術陣、そしてそれらを演出するスタッフなどの綜合された汗と泥まみれの苦闘の姿があることを忘れてはならない。
7月10日、第三回富士登山レースの日は来た。当時としては日本最大のオートバイレースであり、ビッグエベントの日である。当然オートバイレースのマニアは富士山に集結した。日本楽器、ヤマハ発動機から大挙応援団がかけつけた。東京支店を始めとして各支店、及び代理店からも応援団をくり出した。
ヤマハから出場するもの11台とミナト式サイドカーをつけた1台との計12台、選手は木綿の白いツナギ服を着ての参加である。ホンダの選手はすべて黒い皮のツナギ服を着ているので、ヤマハ勢は何か素人っぽい姿であったが、「必ず勝ってみせる」という意気ごみは決してヒケをとるものではなかった。
レースは浅間神社の横の神田川にかかる御手洗橋畔(ほとり)の出発点を午前9時半に第一車が出走、以後1分間隔で午前11時過ぎまで全車出発を完了した。 神田川は今も清流を誇り、ます釣りで有名である。その出発点より川下に神田橋があり、そのたもとの天神楼という旅館は、ヤマハ勢の根拠地でもあった。一方出発点の横に二階建ての「ムーン」という喫茶店があり、その二階全部と、波トタン張りの屋根の上とが当社で借り占められた。この上でヤマハの無線連絡班が携帯用超短波無線機によって、一合目と二合目との間に無線連絡に当った。
上空ではホンダのセスナ機が、何回となく旋回してビラをまいており、いやが上にも興奮はその極に達した。 レースに先立ち、大型の陸王のオートバイにかぶせられた、はりこの栗毛に乗った富士裾野の狩装束の武者二人によって露払いが行われた。白いユニフォームに白いヘルメット、2サイクル独得の軽快な音を残してヤマハの赤とんぼは走りつづけた。他車の車はほとんど真黒だからよく目立つ。
不安と緊張の時間の連続だったが、11時40分にヤマハに凱歌が上ったことが判明した。「勝った。ヤマハが勝った。バンザイ、バンザイ」嬉し涙でクシャクシャになって喜び合う本部要員と応援団。夢にまで見た勝利の栄冠は我らの頭上に輝いたのである。
優勝は岡田輝夫選手が29分07秒、3位に永田敬次選手(実際は日吉昇選手、家庭の事情で名を借りて出場したもの)29分44秒2、4位に山橋兼三・鈴木覚の両選手が29分53秒4の同タイム、6位に益子満選手29分59秒8、8位に石井輝夫選手30分47秒、9位に野ロ種晴選手30分49秒9と以上いずれもヤマハである。2位と7位にホンダベンリー、10位にスズキのコレダがそれぞれ入賞した。
富士登山レースのこの快挙は、業界に新参入りしたヤマハの名声を天下にPRすることにおいて実に効果的であった。そして優勝車及び優勝旗7本が到着すると共に、広沢町の自宅で病気静養中の川上嘉市会長に対して優勝報告を行なうことになった。邸宅の芝生の上に優勝車と優勝旗7本を並べ、川上源一社長より富士登山レース優勝までの経過が報告された。
会長は室内でこれを受けられ、「よくやってくれた」と、社長以下関係者に労をねぎらって下さり、大変満足されたご様子に、一同大いに面目を施すことができた。やはり競走には勝たなくてはならない。
33勝ってかぶとの緒を
レースに勝って、営業第一線の意気は上った。それと共に勝利に酔ったムードは全社に充満した。しかし社長を始めとして幹部の間では、性能向上をはかる知識と経験の不足を深く反省していたように思う。こんなことではいけない。もっと理論的に、統計的に、そのエンジンの品質の原点を追求することの必要性を感じとっていたのである。
7月13日には課長以上の打合せで、基本的に取り組まなければならない研究、実験項目など20件以上にわたって分担をきめ、あらためてでなおすことにした。さらに体制を強化するために、日本楽器より小野研究課長がヤマハ発動機に転籍して、レース用エンジンの研究開発を促進することとなった。
その結果を聞かされた私どもは、勝利の美酒に酔い、ややもすればごうまんな態度をつづけ易い我々を叱責しているような川上社長の決断に対して、後日になって始めてその先見性を思い知らされたものである。
なぜならば、その年の秋行われた浅間火山レースは、富士レース直後、研究陣営の強化を行った処置によってその力を発揮するものである。文字通り「勝ってかぶとの緒をしめよ」の格言を実践されたのである。
7月19日改めて川上社長よりヤマハ発動機出向者に対して辞令が交付された。総務課長高畠朔郎、設計課長高井義朗、同代理根本文夫、研究課長小野俊、生産課長相佐寿一、同代理杉山友男、検査課長村上富久次、以上が創立時の職制である。
約150名の陣容は簡素であり、家族的集団として、ヤマハ丸は怒涛の海に向って漕ぎ出した。先は全く見えない。予測もできない。ただひたむきに新しく生れた「ヤマハ発動機株式会社」という企業を確立したい一念で、果てしなく揺れ動く船の中で無我夢中、それぞれの業務に没頭する多くの人たちをそこに発見することができた。
7月の生産260台、出荷は250台。世の中では倒産または脱落するオートバイメーカーのうわさが相ついでいた。
34実践躬行(じっせんきゅうこう)
その道をきわめた人の論評や意見は説得力をもち、その指導力に対しては敬服し、それに従わざるを得ないというのが常である。その反対に、自分はろくにできもしないのに、やたら人のことを批評したり、いい訳をしたがるような人間をつくりたくない。
このことは少数精鋭主義の幹部育成に当って、川上社長のポリシーではなかっただろうかと、私なりに勝手な推察をさせていただいている。従って機に臨み、変に応じて部下の鍛え方は、かなりきびしいものがあった。
前述の日立精機の工場実習より帰ってきた直後のことである。事務所が全然ない浜名工場のことであるから、生産課長の机をエンジン組立職場の一隅において執務していた。
ところが川上社長から、現場に机を置くなという指示が伝えられてきた。いろいろの背景はあったが、結論的に私の机はなくなってしまった。書類はカバンの中に入れ、ジプシーのような生活がはじまった。なぜこのような処置をとられたか頭の悪い私に、その理由がわかるまでに数ケ月を要してしまった。
1. 現場で汗水だして働いている人たちの前で、ドカッと座り、大きな顔をして、皆の生産意欲がわくと思うか。
2. 机に座っている間があるなら、現場の課長らしく、もっと工場の実態をよくみて廻れ。
3. 人手の少ない工場だから、事務はできるだけ簡素化して、机にしがみついていることのないように、もっと考えよ。
以上のことが、私なりにわかってきた時に、ようやく机の使用が許され、電気室の中において執務をとることができ、また現場の役付の机は、木製の簡素な立机で間に合わせることにした。
また富士レースも迫った昭和30年(1955年)6月24日の午後、工場を巡視された川上社長から、エンジンの組立場にあった1トンプレスの油もれを指摘された。「工作課に依頼してありますが、まだ直してくれませんので……」苦しまぎれに最低のいい訳をしてしまったので、案の定、社長の逆鱗(げきりん)に触れた。
「頼んであるからそれでよいというものではない。現に目の前に油がもれているのではないか。やってくれなければ自分で直しなさい。スタッフは使ってもよいが、現場の人は一切使ってはいけない」と。
さっそく伊藤(福)、河合(仁)両社員と三名で修理を始めた。課長が機械の修理を始めているので、現場の人はびっくりしている。難しいだろうと思っていたが、やってみればそれほどではなかった。
夜の7時半頃完了したので、社長に電話で報告し、その怠慢ぶりを謝罪したところ「わかったらよろしい」と、ようやく許していただいた次第であった。また試作車は必ず管理職と設計者が組み立てることになっていた。もちろん、自分で手掛けるから問題点もよくわかる。
対策や指導の面でもいいくすりになったものである。後発のメーカーが先発の大メーカーに追いつき、追い越すためには、まず幹部を徹底的に体験させ鍛えぬく。ヤマハ精神が育くまれていく原点が、その辺にあったのではないだろうか。
35乗鞍テスト
品質、特に性能面における追求は、飽くことなく続けられた。オートバイの品質とは何か、を求めて。オートバイの普及度も低く、市場調査も不十分な当時として、メーカー自体が実態をつかむことは当然のことといえる。その場合、いつも川上社長が陣頭に立っていた。ユーザーの二ーズ(要求)を探究し、ヤマハのYA-1の適合性を確認して、手を打つためにも、社長の陣頭指揮は素晴しい効果を挙げたと思う。
その一つに、乗鞍テストがある。乗鞍の登山コースは現在のように道路は整備されていないので、乗鞍を征服すれば、評価は容易であるし、問題点も早くつかめるということで始まった。同行するものは、高井・小野・根本・安川・竹内(十)・日吉の各氏でライトバンの鹿島氏が社長に随行したのである。
昭和30年(1955年)8月7日、一泊した高山を朝4時頃出発、全員オートバイに乗り、乗鞍登山を開始した。乗鞍への登山コースは前述の通りであるから、土埃の激しい未舗装道路を、谷底におびえ、片側の岩石に神経をつかって走破したわけであるが、終始社長の元気な走りっぷりに、同行者もすっかり敬服したようである。約2時間半で全員が無事に頂上をきわめ、そのあと、上高地を経由して、浅間レースの予定地を視察して、軽井沢に至るコースを約300km走破したのである。
途中、小諸の懐古園で食べた信州そばの味は、また格別だったとは同行者の感想である。社長を始め技術者の幹部がこれだけ揃って山岳、及び路上テストをしたわけであるから、オートバイというものをかなり急速に理解することができたといえよう。
36富士登山レース以後
その年の8月度の生産もようやく順調になり、出荷も350台を完了した。品不足を嘆く営業陣に対してどうやら格好のつく数字となった。しかし現金正価138,000円、そして販売店手数料は僅少のため、販路の底は浅く、その壁は厚かった。従って営業関係者も工場に劣らぬ努力がつづけられていった。
いくら楽器として知名度の高いヤマハでも、ことオートバイに限っては全然といってよいほど、無名のメーカーである。楽器屋のつくったオートバイが走るかといったお客を相手に、富士登山レースの成果を唯一の武器として、ヤマハというブランドが必ずお客を満足させ得るという信念で、説得しつづけ、売り込みの拡大をはかっていたのである。
品物がどうやら各店頭に一巡し、使われ始めるとともに、クレームや商品に対する改良希望も増えてきた。特に熱処理は現在のようにガス滲炭(しんたん)ではなく、固形滲炭、または液状滲炭という方法をとり、チャチな設備であったために、期待する硬度や強度を得ることができず、その技術は特に遅れていた。ニッケルクロームモリブデン鋼の滲炭は、特に高度な技術が要求されるので、試行錯誤の連続であって、亡くなった原田一雄社員と渥美(春)組長の苦闘の場面が想い出される。
ようやくに所定の硬度がでた僅かな個数の部品を持って、生産課長が次の工程へと送り込むために飛びまわっていたという話は、この当時のことである。ピストンは材質がローエックスのため、焼付がはなはだしく、シフターの曲り、チェンジレバーのスプリングの折れなどが大きなクレームであったが、この辺はあまり専門的になるので省略する。
一方、研究課ができて中沢の日本楽器内に秘密の研究室が設けられ、活発な動きが始まった。今の日本楽器本社の事務所の横にある倉庫の中である。通称八幡倉庫は小さな窓が数個あるだけで、環境の悪いことは話しにならないくらいであるが、外部とは全く絶縁されていて、秘密の研究室にはふさわしいものであった。
ここではレース用エンジンの改良研究が始まっていた。小野研究課長を中心としてスタッフは内藤・石川(虎)の各氏と、たった3名でスタートしたのであった。
昭和30年(1955年)9月頃には175ccの試作が始まっている。この車は同じくDKWの175ccをモデル車としてYC-1と呼称され、ヤマハオートバイの第二弾として翌31年(1956年)に生産が開始されている。
9月10日には、月産1,000台の生産を行うための計画会議がもたれていたが、この日、一瞬私どもの耳を疑いたくなるような知らせが入ってきて愕然とした。それは午後2時半頃、オートバイに乗っておられた川上社長が、遠州鉄道八幡駅附近で交通事故にあわれ、脚を骨折、重傷のため入院されたということである。
オートバイを愛し、浅間レースを前にして品質・性能の原点を探究するため、自らの手でテストされていたオートバイによっての事故である。我々は何か申し訳ないような気持ちで、一日も早く快癒されることを念願せずにはいられなかった。