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やまももの木は知っている ヤマハ発動機創立時代のうらばなし

24工場建設

10月22日には浜松の飛行場の滑走路を借りて、運輸省の認定テストが行われた。結果は加速もブレーキテストも非常に良好で、最高速テストも76km/hをマーク、当時としてはかなり高性能の成績をおさめた。試験も2時間で終了するということは珍しいといった評価を受けた。当時の一般の商品レベルを推測できる話である。
車の性能に対する評価もだんだんに高まり、好評の度が強まるにつれ販売関係者も自信を深め、生産に対する期待と促進の圧力はますます大きくなってきた。従って小松工場を、従来の単なる機械倉庫から生産工場へと脱皮させることが、緊急の課題となった。そのため私も秋以降は小松工場へほとんどつめっきりという形をとった。

当時(1955年)の工場建屋
太線内が当時の工場敷地
細線が現在(1978年)の浜松工場の一部

今まで小松工場といった表現をしてきたが、これは遠州小松駅の近くにあったのでそれで通していたが、実際は浜北町中条にあったので正式名とはいえない。従って、後に正式発足したときは日本楽器浜名工場といわれるようになる。
もともとこの敷地は戦時中、中島飛行機の下請をやっていた浜松市の山下鉄工という会社が、事業拡張のため中条の土地を買収して新しい工場を建設したもので、会社名は大東機工株式会社といい、航空機のピストンの加工をしていた模様である。
構内にはこの辺でよく見かけるやまももの木が数多く植えられていた。

戦後大東機工も漁船用の焼玉エンジンを作り、直径40cmぐらいのシリンダやピストンの加工をしたようである。
昭和21年(1946年)の夏には進駐軍の命により、佐久良工場のプロペラの半製品及び素材の破壊作業を協力することとなり、フライス盤やシェーパー、鋸盤を利用して昼夜兼行で切断をしたということである。
その後大東機工は事業圧縮のため、東海繊維、ヤマヤ醸造、遠州繊維に分割し、最後に中心部の工場二棟を日本楽器に売却したものである。日本楽器はこれを入手して、佐久良工場から機械を搬入して倉庫としていた。
雑草とやまももの木にとりかこまれた廃屋同様の倉庫を、オートバイを生産するための工場としなければならない。当然のことながら大変な仕事であるがやり甲斐もあった。

25販売及び生産準備

営業関係は日本楽器の各支店が動員され、ディーラーの獲得も徐々に実績があがり、販売台数も月産200台ぐらいの見通しがつき始めると共に、早く入手したい、販売したいといった要望はますます強くなってきた。
生産準備について工程計画やレイアウト関係は能率課のスタッフを動員し、治工具の設計は製品設計を終えた人たちが担当するとともに、外注の手配まで受け持ったりして、何でもやらざるを得ない状態であった。この点は組織が小さいときの家族的集団のよいところでもあったと同時に、そういう時代を体験した人たちはかえって幸せだったのではないだろうか。

浜北工場に育つやまももの木(現在)※1978年当時

技能者を編成することは一番頭を痛めた。「機械工場といえども女子を使っていく」ということはすでに定まっている方針である。日本楽器の社内から募集して、テストに合格した約10名の女性に対し、ターレット旋盤の教育も始まった。TWIの手法をもって、どこまで成功できるか、敢えて挑戦したものである。
また機械及び仕上げの技能者を社外から募集したところ、応募者も多く優秀な人たちが集った。厳しい採用試験は10名に1名ぐらいの割合だったと思う。さすがに入社した人は粒ぞろいであり、今もおのおの重要な仕事に活躍してくれている。

生産現場の幹部要員についてはほとんど日本楽器の鉄工課、工具課に在籍しており、かつ役付でない若手の中から人選して、充当することにした。まだそれでも機械経験者が不足するので、国鉄の工機部を定年退職した人たち十数名をアルバイトの形で受入れ、だいぶ助けられた。
人員の編成が徐々に固まるにつれ給与問題も悩みの一つであった。当時日本楽器の給与は請負制度をとっており、それによって能率を上げ、それに伴って給与を褒賞歩合として加給していたのである。
従ってオートバイ部門はどうするか。この点は随分もめた所でもあった。しかし社長は以前からこの請負制度に不満をもっていたように思う。そのためオートバイ部門については「あのみにくいやり方はやめて従業員を信頼して固定給で押し通したい」という社長の意向に基いて、最終的には請負制度はとらないこととなった。
12月1日、購買関係の手配状況を勘案して、生産予定は1月20台、2月100台、3月150台、4月200台と決定した。特約店も全国で20店の契約が完了するまでになった。

26浜名工場発足す

昭和30年(1955年)1月1日より日本楽器浜名工場が新発足して、組織的にもオートバイ事業が開始された。工場の整備も29年(1954年)の暮までには略々完了してどうやら工場らしくなった。工場の規模は小さくても、きれいで何かシンの通った模範的な工場にしたいという社長の方針に従って、いろいろな手が打たれた。

当時の浜名工場(昭和30年1月)

まず一番重点的にやったことは床をきれいにすることである。泥を一切持ちこむな。すなわち座敷と思えということである。工場に下駄箱が用意され、土足はここで会社より支給した上ばき用の草履(ぞうり)とはきかえて入るわけである。
機械場のクランクケースの加工職場とエンジンの組立職場は、木材のフローリングを張りつめたもので、ぜいたくと陰口を聞かされたものである。これはアルミの部品を疵つけない配慮からのものであった。
建物の周りは芝生をはったが道路より10cm下げることまで指示を受けたが、これも雨のとき泥が道路へ流れ出ないようにするためであった。建物の外観も白ペンキを塗ったら様相が一変し、緑の芝生、白い工場、やまももの木とがよいコントラストを作り出し、一応格好のついたものとなった。
しかし生産の内容は大変なものだった。何から何まで全部初めてづくしだから簡単にいく訳がない。なかなか合格する部品ができなくて、ついに1月の予定はやむなくゼロとして、2月に100台としたけれども、これまた悪戦苦闘の連続となった。
関係者も毎日、夜の10時前に帰れることは稀であるくらい、工場へつめっきりの生活がつづいた。営業のある人がエンジンのマフラーを、首に巻くマフラーと勘ちがいしたという話に代表されるような、商品知識の未熟からくるロスもばかにならなかった。
販売価格も迂余曲折を経て、最終的に138,000円と決定した。それも現金正価である。当時の125ccクラスの車は110,000円~120,000円前後であったから、そのころとしては眼がとびでるような高価であったことは間違いない。これで果して売れるだろうか。
そんなことを心配する前に、生産課長として、どんなに焦り、いくら奔走しようとも、製品は一向にまとまらず、YA-1誕生への陣痛は1月から2月の初めにかけて最高潮に達した。眠れぬ夜がつづき、胃の痛む想いの懊悩(おうのう)と焦悴(しょうすい)の日々であった。

27赤とんぼ誕生

1月の生産見通しも全くたたなくなったので弁解じみた報告をしたところ、社長からはかなり厳しい指導を受けた。
「先行度が一ケ月もかかるということは何事だ。200台の能力を以って50台ずつ流せば一週間で流れるはずだ。もっと短期間の日程で流す工夫をせよ。希望的条件を含んだ計画はいけない。無理やりに希望を出すな。始め少しばかりの生産をしたり止めたりなんてことはやめて、15日からでもよいから、3台4台というふうに連続してやれる体制を確立せよ・・・・・・・・・」と。
耳の痛いことばかりであったが、実のところ機械も永年使っていないので調子もでない。この点ホトホト手を焼いていた。
しかし2月5日頃よりエンジン車体共にどうやら組立を始めることができた。もちろん組んだりバラしたりしてのことではあるが。途中休出などして2月8日にエンジン一号、二号とも組立完了したが、シフターカム板のストップ面が欠けたりしたのでやり直しを行い、2月11日に至ってようやく一台完成した。エンジンニ号、車体も二号を合わせて、一号の完成車が出来上ったのである。
この日ちょうど来社されていた評論家の伊藤兵吉氏が早速試乗テストをした。氏はフートレストを地につけて運転した結果、安定性が非常によいということで激賞してくれた。
次いで川上社長も試乗したところ、これならよいということで社長自らエンジンにNo.1の刻印をされた。この瞬間を立会った人も少なく、あまりにも静かな出来ごとであったが、思えばヤマハ発動機の歴史の中で意義ある重要なひとときであった。
奇しくもその日は、戦時中の紀元節に当り、のちに建国記念日に制定された日である。しかしそのころは平日であったが、私どもにとって終生忘れられない日となったのである。
さっそく高井部長がこの一号車に乗り、浜松市連尺町にあった谷野商会に納車に行くことになった。とりあえず工場は作業を中止して、約80名ぐらいの全従業員は工場正門両側に並び、手の痛くなる程の拍手で歓送した。
心よいエンジン音を残して浜松の方へ向ったその後ろすがたは、希望のともしびを求めて勇躍し、敢えて波瀾と混迷の市場に飛び立って行った赤とんぼの出発(たびだち)の姿に見えて、改めて身のひきしまる想いであった。

入社記念講演の感想文に答えて
取締役原価企画室長 杉山友男

以下の文章はこの物語の筆者が1978年(昭和53年)6月に、入社2ヵ月後の新入社員に向けて連載記事の末尾に書いたもので、当時のヤマハ発動機の社内の雰囲気が表れています 。

新入社員の皆さん、入社以来2カ月余り配属先あるいは、実習先の各職場で、意欲に燃えて、ご活躍のことと思います。
さる4月1日入社式当日、私は皆さんに2時間程の話をし、その後でみなさんから頂いた感想文を全部熟読しました。
読んでいくうちに会場内の寒さ音響の悪さなどがあったにもかかわらず、非常に熱心に聞いてくれたこと、ヤマハヘの愛情、仕事に対する姿勢や情熱など、若々しい気魄が迫って思わず感激しました。
また、感想文より逆に教えられたことや、私自身の考え方、行動の仕方を反省させられたことも多々ありました。
私の話は体験談として、決して皆さんに“がんばれ““努力せよ“と強要したつもりはなかったのですが、しかし感想文からは“積極的にがんばる““これからのヤマハは自分達にまかせろ“と力強い決意がはね返ってきています。
ヤマハを取り巻く環境は、円高不況の厳しい情勢下にありますが、この様に若いエネルギーに燃えた皆さん方が多数入社されたことを今、実感としてつかまえることができ、こんなにうれしいことはありません。
みなさん、入社に当って胸に抱いた若々しい情熱をいつまでも絶やすことなく“逆境は天賦の師““困難に負けず明日のヤマハの発展を求めて突き進んでいこう“ではありませんか。

  • 設計や実験に活躍するみなさんは、高性能であるばかりでなく工場で作り易く、市場に受け入れ易い製品を生み出すこと。
  • 工場で活躍するみなさんは、世界の市場を相手に使用に耐える高品質の製品を低コストで作ること。
  • 営業で活躍するみなさんは、工場で作り込んだ製品をより多くの人々に使って頂くこと、そしてユーザーの生の声を本社に伝えるパイプ役たること。

みなさんが各々責務を全うすることが、明日のヤマハを築く礎となると信じています。慣れない仕事に、精神的にも、肉体的にも大きな負担がかかることと思いますが、健康に十分留意され、がんばって下さい。そしてあなたの手で、あなたの歴史の新しいぺージを書いていって下さい。最後に、これからも何か気付いたことがありましたらお便りをお寄せ下さい。楽しみにしています。

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