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やまももの木は知っている ヤマハ発動機創立時代のうらばなし

1はじめに

現在(1978年当時)浜北工場にあるやまももの木

昭和29年(1954年)の秋、当時の日本楽器浜名工場、即ち現在のヤマハ発動機浜北工場の周辺は、にわかに賑やかになり始めた。
バラック建の木造工場二棟は背丈もある雑草にとりかこまれていて、うら淋しいたたずまいの中に、やまももの木が10数本、建物の両側に整頓よく並べられて立っていた。
それから20数年は経過した。そのときのやまももの木は場所こそ移り換えられたが、益々その威容を誇っている。
世の変遷、人の移り変る中で、やまももの木はそのすべてを見つめてきたにちがいない。
しかしやまももの木は何も語ってくれない。
私事で恐縮だが、ここ1~2年いろいろの席上で体験談を話す機会を与えて頂いたとき、かなりの人たちからヤマハ発動機創立当時のことを知りたい。社報に載せてくれないか。といった声の多いことに驚いた。
そんなこともあって、何か各位のご参考になればと思い、ヤマハ発動機創立当時のうらばなしといったようなことを思い出すままに述べてみることにした。
年寄の回顧趣味と笑われるかも知れないが、当時のことを知っているものの一人として、そして体験しているものとして、偏見はあるかも知れないが記述しておくことも使命の一つではないだろうか――と自らいい聞かせて。

2楽器とプロペラ

プロペラ陳列場にて若き日の筆者

なんといってもヤマハ発動機の創立はプロペラの起源に始まることは皆さんご存じの通りであるが、話はさかのぼって楽器とプロペラの関係から始めてみたい。
昭和10年(1935年)2月、即ち昭和初期の不況にして就職難時代に、日本楽器の門を始めてくぐった私の眼に映ったものは、日本楽器は楽器だけでなくプロペラも製造しているということであって、意外な事実にびっくりした。
航空機プロペラといっても、ほとんど木製プロペラであって、当然翼もボスも一体の固定ピッチ型である。
木の材質はマホガニー、くるみの良質材を厳選したものを人工乾燥し、20ミリ厚に精密に仕上げたものを膠(にかわ)またはカゼイン膠といった接着剤で、加圧積層してしばらく放置する。

木製プロペラの加工工程

それを複雑な断面形状に仕上げる。そして発動機の軸にとりつけるボス部分を中心として、バランスよくかつ対称的に仕上げる。それこそ木工職人さんの腕のみせどころでもあった。
最後にうるしなどで塗装仕上げして完成するものであるが、以上の工程はピアノを製造するための精密なる木工加工技術が最も適していたわけである。
従って日本楽器が木製プロペラを作っていたことは納得ができる。

3金属プロペラ

金属プロペラの構造

一たんプロペラの製造技術が確立すると、必然的に軍の要請も強くなり、満州事変の始まった昭和6年(1931年)には、金属プロペラの製造が開始されたのである。
満州国が建国され、五・一五事件のあった昭和七年の翌年には、木製プロペラの表面を真鍮の金網で包み、セルロイド溶液でそのすきまを埋めつくしたあと、表面を平滑に仕上げる方法が始まった。
日本楽器が開発したこの被包式木製プロペラは、軽くて強度の高いものであった。
昭和11年(1936年)2月26日、この日は浜松地方も白一色の銀世界となったが、東京では有名な二・二六事件が起きた。翌12年7月、日華事件が発生、戦時色が濃厚になると共に、金属プロペラ製造のウエイトは高くなってきた。
昭和13年には日本楽器内のプロペラ関係工場は陸軍の管理工場となって、楽器関係の従業員も日増しにプロペラ関係の仕事の方へ増強された。プロペラ関係の仕事をしている人はプロペラの入ったバッヂをつけておリ、バッヂのないものは工場への出入りは絶対にできなかった。

4ハミルトン式可変節プロペラ

ハミルトン式可変節プロペラ

日本楽器が陸軍のプロペラを製造しているのに対し、海軍の分は住友金属が担当しており、住友金属はアメリカのハミルトンスタンダード社から、ハミルトン式可変節プロペラの製造権を購入し、昭和12年(1937年)から試作していたようである。
日本楽器もこのハミルトン式可変節プロペラ製造の分権を得て、陸軍用として製造することになり、昭和13年にはその準備が始まった。
本社工場もコンクリート建築の3階、4階が相ついで建てられ、中通りの東側には新工場と称せられた4,000坪の工場が二期に分れて完成している。
一方加工用の機械は、国内の主要工作機メーカーより続々と入庫し、アメリカからもシンシナチー、ミルウオーキー、ヒールド、ノートンと云った銘柄の優秀機械も入ってきて、大軍需工場の様相を呈するに至った。
技術陣はハミルトン杜から送られた製品図、治工具図面を日本版に書き改めていくことが仕事となった。
アメリカから送られてきた図面の寸法はインチ、大きな図面に小物部品まで全部書き入れる型であるから、これをミリに換算したり翻訳したり一品一葉の図面にしたり、発註手配といった計画関係を担当したが、今のように機械技術屋が揃っている訳ではないので、幹部も頭を痛められたことと思う。

5プロペラの生産

当時のプロペラの生産は、文献によれば日本全体で昭和12年(1937年)1,584本、昭和13年1,846本、昭和14年は4,033本でその内訳は住友金属1,466本に対し日本楽器は2,567本で、全体の約60%を製造していたことになる。
また、プロペラの種類の内訳は、昭和14年の軍の要求表によれば次の通りである。

プロペラ生産能力 要求表(金属固定及び可変節プロペラ中 約2/3は3翅)

その後、プロペラの生産能力要求は更に強くなり、昭和14年上半期の1カ月平均生産実績320本を、昭和16年9月には約3倍に増強しようとしたものである。
昭和17年の生産予定は全国で12,522本となっているが、戦争末期の数量ははっきりしない。しかし、昭和19年には月に1,300本前後になったと思われる。
キ/48を主として、キ/57キ/51といった軽爆機や輸送機に使われている三翼のハミルトン式プロペラが大部分だった。
この頃になると金属の固定節プロペラはほとんど作られていない。
これに対応するために工場は昼夜交代、学徒動員、勤労奉仕、徴用などの人であふれ、相つぐ空襲下"一機でも多く航空機を前線へ"といった生産がつづけられていたが、そのときの従業員総数は一万名にも及んだ。

6プロペラの改良計画

戦争末期にはハミルトン式可変節プロペラ改良の計画が進められた。ハミルトン式は、定回転プロペラで所望のピッチをとり、所望の回転数を出し、常に発動機の全能力を有効に利用する構造で、航空機の性能向上要求に応じたものである。
定回転プロペラの改良計画は、住友金属がドイツのVDM式、日本楽器かドイツのユンカース式、日本国際航空工業がフランスのラチエ式の製造権を購入したが、その中で実用になったものは次の通りである。

これ以外に、幻のプロペラともいうべきプロペラが日本楽器で計画準備されていた。

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