1950年代後半になると、日本の二輪車産業は、ヨーロッパの技術を模倣したり改良したりする段階から、マーケィングを重視したオリジナルの製品開発競争の段階へと入っていった。

ヤマハ発動機の研究開発体制は、もともと日本楽器の浜松研究所に依存していたが、1956年の9月に移管され、さらに3年後の1959年9月1日には「ヤマハ技術研究所」が発足する。日本楽器の金属材料研究所、東京研究所、ヤマハ発動機の浜松研究所を1ヶ所に集約し、オールヤマハの研究体制を整備拡充したのである。

この研究所は、金属材料、非金属材料、音響、電気材料、応用物理、内燃機関などの分野ごとに研究室体制をとり、試作工場も併設していた。日本楽器やヤマハ発動機からも独立した機関として、数年先の製品化を目指した技術開発や、すでに市場に出た製品の技術革新を図る研究に力を入れた。中途入社の多い技術陣は人材も多彩で、川上社長の方針は利益の1/3を研究開発費に投資するというものだった。


その中に本格的な高性能スポーツカーの研究開発に取り組んだ研究室があった。ヤマハはすでに1958年、浜松研究所で軽四輪自動車の開発を検討していたが、事業として採算性が危ぶまれるとの判断で立ち消えになっている。その後、この研究室が自動車研究を引き継いだが、経営環境の悪化により1962年2月、この研究室は解散となった。

同じ年の11月、ヤマハ技術研究所も解散した。しかし、「自動車をつくる」という夢のもとに積み重ねられた研究はその後、トヨタ自動車とのスポーツカー共同開発という形で実を結ぶことになる。

それだけでなく、モーターサイクル、ボート、ヨット、船外機と、その後のヤマハ発動機を支える事業の芽を次々に生んだという点で、ヤマハ技術研究所の果たした役割は大きかった。

ヤマハ技術研究所(1959年)

1961年3月、「ヤマハ技術学校」が設置される。日本楽器とヤマハ発動機の従業員を対象に、2年間、基礎知識と技術を教え、優れた人材を育てることが目的だった。1963年「ヤマハ技術研修所」、1973年「ヤマハ高等技術学校」として時代の要請に応え、生産現場における中堅技術者の養成を図った。

創業当初、十分に経営基盤が整わない中で、「品質絶対」「技術革新」を掲げて研究体制の整備に力を入れたことは、その後ヤマハ発動機が事業の「多軸化」を推進する原動力となった。

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