国内の二大レースで勝利し、大いに意気が上がっていたころ、北米を中心に市場調査を兼ねて営業活動をしていたスタッフから「ロサンゼルスを中心とした地域にヤマハオートバイを売り込むためには、大きなレースに出場して性能の優秀性を証明するのが最良の方策」という報告が入った。
川上源一社長は、モーターサイクル事業への進出を決めたときからすでに「海外に雄飛する」という構想を描いていた。こうした信念を実現する方策として、1958年5月3、4日の両日、ロサンゼルス沖のサンタ・カタリナ島で開かれるカタリナグランプリに参戦することが決まる。ヤマハにとっては初の国際レースだった。
ヤマハは、250ccクラスに5台のマシンを送り込んだ。第2回浅間火山レースで活躍した「YD1改」に、不整地走行のためのモディファイを加えたマシンだった。5台のうち1台には伊藤史朗選手が乗り、他の4台にはアメリカ人ライダーが乗った。
このレースでヤマハの最高位は6位に入賞した伊藤選手だったが、全32台中完走わずか11台という過酷なレースの中で、最後尾からの追い上げで6位まで順位を上げた伊藤選手の走りは現地で大きな注目を集めた。また、その後ロサンゼルス市内で行われたハーフマイルレースにも出場し、このレースで優勝を飾ると、はるばる日本から遠征してきたヤマハチームの活躍は現地のマスコミでも話題となり、ヤマハモーターサイクルのアメリカ市場進出に大きな弾みをつけたのだった。
翌1959年8月には、浜松研究所にファクトリーマシンの開発チームが組織される。非公式の組織だったが、レーサー開発を専門とするチームが編成されたのは初めてのことだった。チームは、エンジン設計、性能開発、車体設計、走行テストなどのグループに分かれ、「世界グランプリロードレースに勝てるマシン」の開発に総力を挙げることになった。
そして1961年、ヤマハは満を持して世界グランプリロードレースに参戦。フランスGP125ccクラス8位(野口種晴選手)というデビュー戦を経て、初めて出場したマン島TTレースでは、250ccクラスで6位入賞(伊藤史朗選手)の成果をあげてグランプリにおける第一歩を踏み出したのだった。
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