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いつの日も遠く ヤマハ発動機開拓時代のうらばなし

船外機とともに

23次の市場はスターンドライブ

アメリカ市場へ進出した頃から、次の商品として船外機の延長線上にあるスターンドライブを開発すべきだと考えていた。スターンドライブ市場はアメリカが主体であり、その市場の状況は次の通りであった。

① 市場規模は船外機と比較すると台数では28%であるが、売上額では70%にも及ぶ大きなものである。

② メーカーはマーキュリーを筆頭にOMC、ボルボの3社しかない。

③ 商品ラインナップもエンジンは140馬力から450馬力までの6~8機種、ドライブ本体は2種類で間に合わせる構成になっている。揃える商品数、部品数などは船外機よりずっと少なくて済む。

④ 船外機の需要はほぼ横這いであるが、スターンドライブは過去から伸び続けている。

⑤ 船外機の開発製造技術が活用できる。

⑥ ヤマハ船外機のブランドイメージ及び販売網が活用できる。

⑦ 大型船外機の拡販のためにもスターンドライブ商品を持つ必要がある。

これらの状況がスターンドライブをやるべきだと考えた理由である。まず船外機の時と同様に調査会社に依頼し、メイン市場であるアメリカでのスターンドライブ市場について詳しく調査した。また技術部員も市場を回り、ディーラーとユーザーの意見を集めた。

その結果、スターンドライブのユーザーは船外機ユーザー以上に船に重点を置いている人が多く、スピードもそんなに出さない。サービスが充分できてさえいれば、性能面には余り関心が高くない。しかし、ヤマハが新しいスターンドライブを出すならば、特徴のある良い商品を出して欲しいという意見が多かった。

ユーザーのいう「良い商品」とは、今のエンジンは大きくて重いので、もっとコンパクトで軽量のものを望む。また使い勝手も良いものにして欲しいということであった。今は保守的市場であるが、技術革新の波がいつか来るだろうという印象を受けた。そこで、スターンドライブ開発の指針を、現在市場にあるどの商品よりももっとパワーウエイトレシオの優れたエンジンを作ること、またドライブ機能を含めて、使い勝手の面でも他社とは異なる良い特徴を持つことに重点を置いた。1985年の暮れである。

24ボートビルダー買収劇の始まり

先ず検討されたのが船外機のV6エンジンが使えないかということであった。これなら軽量コンパクトで生産準備も投資も要らない。数が増えれば船外機のコストも下がる。しかしスターンドライブエンジンとして使う場合は、船外機のように縦置きではなく横置きにしないと背が高くなって船への収まりが悪い。横置きの場合は吸排気の位置を変更することになり、シリンダーブロックは新設計となってしまう。

新設計になるなら、ということでもう一歩進めて、もっと船への収まりの良いレイアウトができる水平対向6気筒エンジンが検討された。これだと背が低いので後部シートの下にエンジンがおさまり、船の大きさが同じでも有効居住空間がずっと広くなる。したがって、船の新しいレイアウトが可能になり、ヤマハの大きな特徴になる。実際に水平対向6気筒エンジンを試作したところ、船のレイアウト上、大きなメリットがあることが確認された。しかし検討を進めて行くと、最後まで残った問題は価格であった。

スターンドライブ(船内外機)開発では複数のエンジンレイアウトを検討

他社の使っているGMのエンジンは二十数年前に設計されたトラックエンジンで、価格が非常に安い。それに対して新しい水平対向エンジンは数量も少なく、とてもGMエンジンに対抗して商品として成立するところまで行かなかった。次にヤマハ発動機AM事業部でトヨタ車向けに生産されているDOHCエンジンも検討したが、価格面で成立しなかった。しかし、他社のように重くて効率の悪いエンジンは使いたくない。

多少行き詰まった状態が続いた。そのような時期に、スターンドライブを中心にアメリカのボート業界に大きな変化が起こった。スターンドライブは長い間マーキュリーの独占に近い市場であったが、OMCがスターンドライブの新シリーズ(コブラ)を発表してシェアの拡大を狙った。

OMCはボルボの主販売契約先であるベイライナー社(ボートメーカー)の契約を自社の新シリーズ(コブラ)に切り替えさせてしまった。ところがそれを見ていたマーキュリー(親会社はブランズウィック)は、ベイライナー社を買収してしまったのである。これが口火となってブランズウィックとOMC両社によるボートビルダー買収劇が始まった。

ボートビルダーの系列化が急激に進み、スターンドライブに関していえば、ボートビルダーの半分近くが系列化されてしまった。この背景には、

① ボートの売れ行き伸長に比例して利益を増したのはボートメーカーであり、資金力も会社の力も大きいエンジンメーカーは、逆にマージンを下げる結果になった。

② 日本メーカーの進出により、エンジンメーカー間の競争が激化した。

③ ボートはエンジンと違って、日本メーカーもアメリカ進出はできないだろう。

④ ボートとエンジンを一緒に販売することで合理化が図られ、市場シェア拡大が可能になる。

このようなことでOMC、マーキュリーがボートメーカーの買収を始め、次々とボートメーカーがOMC、マーキュリーの系列に変わっていった。ボート全体の売上の35~40%が系列化された。

ほとんど一年半位の期間のできごとである。スターンドライブ、船外機を含めてアメリカにおけるその商品の形態が大きく変わっていった。結果として系列外のボートメーカーはスターンドライブ、船外機のエンジン供給を受けられなくなるかもしれないという懸念さえ持つようになる。そのためスターンドライブについては、OMC、マーキュリー以外の安定した供給先の出現に期待がかかった。

25風雲急を告げられたヤマハ

この状況を見たYMUSは「スターンドライブの市場に入るには今がチャンスであり、この機会を逸すると系列化がますます進み、系列外のボートメーカーも色が付いてしまう。そうなるとスターンドライブ市場へヤマハが参入する余地がなくなる」と判断した。「商品の特徴は無くてもよいから、今すぐに商品が必要である」とアメリカから連絡してきた。

その頃、技術部の開発チームは使用エンジンの選択に悩んでいた。しかし既に全体構想としては「ドライブ2系列。エンジンは4ストローク、2ストローク及びディーゼルのそれぞれのラインナップを持つ」ということで合意されていた。特に低馬力は2ストロークエンジンシリーズを持つことをヤマハのスターンドライブの特徴としたいと考えていたが、全ラインナップを同時に開発することは不可能なので、商売上、開発の優先度を考えなければならなかった。

そこで第1ステップは、1機種のドライブで140馬力から260馬力までの4機種の4ストロークエンジンシリーズと組み合わせることにする。この4ストロークエンジンシリーズは、メイン市場がアメリカであり、日本国内では大排気量ベースエンジンの調達が困難なこと、また前述のように新エンジン製作には未だ問題が多いこと等を考慮して、ベースエンジンは市場で受け入れられやすいことも含めて、GM製を使うのも止むを得ないとした。

しかし、他社と同じべースエンジンでは、出力による差が出しにくいので、ヤマハの特徴づけを行うためにエンジン制御に先進技術を取り入れた。そして第2、第3のステップで大馬力までのラインナップの拡大、ディーゼル及び2ストロークシリーズの設定、最終的にはGMエンジンに変わる軽量コンパクトな新しいエンジンを商品化するという構想の下に、第1ステップの140馬力から260馬力までの4機種を1990年モデルとして発表する計画を持っていたのである。

ところが前述のように、「この計画では遅すぎる。商品の特徴は無くても良いから一年後には商品が欲しい。そうでないとアメリカへ進出する絶好のチャンスを失ってしまう」これがYMUSの主張であった。

「ある程度満足する商品にするためには少なくても2年はかかる。いい加減な商品は出せない」というのが開発チームである三信工業の主張であった。最終的にはヤマハ発動機の常務会でYMUSの意見に押し切られてしまった。計画よりも一年以上繰り上げた生産立ち上がりを余儀なくされたのである。

26日米合作となったスターンドライブ

決まった以上は全力で実行しなくてはならない。技術部も製造部も大変だった。ヤマハの特徴はなくても良いとは言っても、最小限、他社にないものを付加したい。そこでエンジンについてはコンピュータによる点火時期制御システム(DLI)を採用し、各種の安全機構を織り込むとともに、信頼性、便利性、先進性、サービス性などで他社との差別化を図った。

ドライブについてはトリム機構に特徴を持たせ、便利性、安全性等で他社との差別化をはかった。また、ドライブは一つの仕様で、ギアの組分けで全モデルをカバーできるようにし、2機掛け用の逆転モデルをバリエーションとして設立した。

べースエンジンについては差しあたってGM製を使うので、物流の合理化、輸出コストの総合採算性の改善と早期開発のために、エンジンをアメリカ国内でマリナイズすることになり、この仕事はインボードメーカーであるクルセイダー社に依頼することになった。

これは貿易摩擦にも役立つことである。クルセイダー社はレジャーボート用のインボードエンジンメーカーとして素晴らしい経歴を持っており、アメリカ市場の45%のシェアを得ている。クルセイダーでマリナイズしたエンジン完成品と、三信工業で生産したドライブ完成品をアメリカで組み合わせて発売する方式を取った。

エンジンをアメリカで生産すると言っても、マリナイズ設計とドライブの設計は全て三信で行わなければならない。日本とアメリカ双方の商品の評価も大変であった。また生産準備、外作品の購入手配など、全社を挙げて対応した。

そして、1988年1月のニューヨークボートショーで、1989年モデルからヤマハスターンドライブをアメリカ市場及び世界市場に向けて売り出すと発表した。何とかYMUSの要望に答えることができたのである。

スターンドライブの米プレス向け発表会(YMUS主催)を伝えるディーラー向け記事(1988年)

27不況の波に耐え、先駆ける商品を

皮肉なもので、アメリカのボート業界の景気は1983年から続いていた好況も1989年をピークに下降線をたどっていった。好況時に業界の系列化が進み、需要の伸びに応じて増産された商品の在庫が溜り、それがさらに不況色を強め、今日のアメリカボート業界の長期低迷状態となっていった。

我々が次の時代に向けて出した商品も、結果として市場へ投入する時期を誤ったことになった。最初に計画した販売量はとても達成されず、生産投資額も大きかったため、その償却も未だにできていない。

世の中の景気には常に波があり、良い時も悪い時もある。しかし商品作りが景気の動向に大きく左右されてはいけない。商品を世に出すタイミングが多少遅れても、長期の目標をしっかり立て、急がず、ステディな計画の中で特徴をもった誇り得る商品を作り上げるようにしなければならない。他社並みの、あまり特徴を持たない商品が不況の波をかぶった時は誠に哀れである。

その後、第2ステップの大型スターンドライブの開発が進められた。大型ドライブのエンジンに使えるものはGM製以外にはないので、ドライブだけは特徴を持ったものにしたいというのが我々の願いであった。このドライブ機構には他社にない油圧クラッチを採用し、ギアシフト時に起こるガチッという不快感を解消した。

競合製品の短所であった異音やショックの解消を図る独自の油圧クラッチを採用したスターンドライブ(YE-7.4L)

コストは少し高いが使い勝手は他社よりははるかに優れた製品となったこの商品は、1992年度IMTECショーにおいて”Innovation Award”を授与された。これはアメリカのマリン業界でその年の最も優れた技術を持った商品に与えられる賞である。その他にもポピュラーメカニクス(Popular Mechanics)誌から”Design & Engineering Award”、ボーティング(Boating)誌から”Best of Boating”、METS(Marine Equipment Trade Show)においては”Design Award METS”の各賞を受けている。

市場に投入するや数々の賞に輝いたスターンドライブ

商品が高く評価され、実際にユーザーの評判も良い。ヤマハスターンドライブはこれから先も改良を加え、最終的にはエンジンにおいても、しっかりした特徴を作り出していかなければならない。いつまでも重くて古いGM製エンジンが市場で受け入れられることはないであろう。他社に先駆けて、軽量コンパクトな新しいエンジンを作り上げることが次の課題である。そしてスターンドライブが事業として根づき、ヤマハマリンエンジンの将来を支える商品となることを信じたい。

28あとがき

私のサラリーマン人生は、その大半が技術屋として物作りにかけたものであった。そのため思い出として心に残っているものは、どうしても物作りが中心になってしまう。現在の日本は、商品製作技術にかけては世界で最も進んだ国と言われているが、そうでなかった時代、戦後の何もない時代に、できるだけ早く世界の技術レベルに追いつきたい一心で、情熱を持って物作りに励んで生きることのできた我々のような技術屋は、かえって今の時代の技術屋よりも恵まれた人生経験ができたのかもしれない。

自分の仕事にロマンと情熱を持ち続けることができれば、どんなに素晴らしいことであろうか。

夢のあるクリエイティブな仕事こそ自分の仕事と感じ、時を忘れて熱中した遠き日々。三菱時代に意気投合して青春を語り合った人たち、オートバイ創成期の七人の侍たち、安川研究室の当時の若者たち、トヨタをはじめ会社の垣根を越えて付き合った技術屋たち、そして船外機の「損害機」時代にともに苦労した仲間たち。こういう人たちがいたからこそ、私の物作り人生があったのだと思う。こういう人たちとの友好はいつまで経っても美しい人生の思い出として忘れることはできない。心から感謝する気持ちで一杯である。

ヤマハ船外機USA上陸10周年を記念し、当時の仲間がフロリダに集まった

物作りほど結果がはっきり出るものはない。

物は正直であり嘘をつかないからだ。そういう意味では、物との付き合いほど気持ちの良いものは無かった。これからも真実を求めながら、残された自由な時間を自分の気持ちに忠実に生きて行きたいと思っている。

書き終わってみると、遠い昔ほど記憶が薄くなっていて、全体を通しての内容のバランスに欠けてしまったかもしれない。しかしこの現実が私の人生なのだから仕方がない。人間の記憶とは頼りないものだ。

メモにでも残っている物があればその回りのことが思い出されるのだが、そうでない限り、余程印象的であったこと以外は殆ど忘れ去っている。本来、時の流れの中で大きな曲がり角なり重要な事柄は記録されていなければならない筈だが、その場に居る時には事の重要さが判らず、後になって、「あの時が大切な時であった」と気付く。気付いた時にはもう遅く、必要な物は何も残っていない。その場に直面していないと真剣になれないものだろうか。

この断片的な経験談も、途中の記録がしっかりと残されていればもっとまとまりの良い内容になった筈なのにと悔やまれる。人生も青春も二度は経験できないものなのか。

終わりにこの本をまとめるにあたって、いろいろと助言を頂きお世話になった小田工芸社・専務の小田富康さんと、三信工業の社内報編集の西島年彦君に厚く感謝を申し上げたい。

1993年(平成5年)5月
安川 力

船外機レース艇に試乗する筆者(マイアミのレース場にて)

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