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いつの日も遠く ヤマハ発動機開拓時代のうらばなし

四輪自動車の日々

5挫折と再起

この様なことがあって、1962年(昭和37年)2月に安川研究室は解散となり、発動機部の中に吸収された。その後はタイスエンジン改良型のエンジン中心の仕事だけ続けることになる。大きな夢を抱いて作ったスポーツカー2台とタイスエンジンを改良した未完成エンジンだけが後に残った。淋しさはひとしおであった。

この年の11月、ヤマハ発動機はスクーターの失敗とオートバイの不況で縮小を余儀なくされ、ヤマハ技術研究所も解散することになる。この様な状況の中では自動車関係の仕事を続ける余裕などはないという意見が強かったが、折角スタートした自動車関係の仕事をこのままで終わるのは如何にも残念であった。

「是非続けさせて欲しい」と私は川上社長にお願いした。川上社長の何とかならないかという気持ちもあり、会社幹部が銀行を通じてある自動車メーカーに技術の売り込みを行ったところ、銀行を介した話だったからであろう、先方から技術担当の重役を中心に幹部の方々が我々の作った車とエンジンを見るために来社した。

実物を見て信用したのであろう。業務提携の話が具体的に進み、この仕事の窓口としてヤマハ発動機に開発部が新設された。部長は小野重役、課長は私、そして以前の安川研究室のメンバーを中心に再編成された。諦めかけていた自動車の仕事を先につなげることができた。

最初の仕事はエンジンの設計の下請け、オープンカーの幌の設計試作、タイスエンジンを改良したヤマハ2,000cc・DOHCエンジンYX-80を先方の車に搭載し、新たなモデルとして性格付けができるかどうかの検討など、先行開発的な仕事が中心であった。

6幻となったスポーツカー

これらの仕事をやっているうちに相互の人的交流も激しくなり、少しずつ物ができてくるにしたがってヤマハの技術も認められていった。そしてついに本格的な新車開発の仕事としてスポーツカーの共同開発の話が持ち上がった。やっとまた、スポーツカーに携われることになり、本当に嬉しかった。

開発車両の仕様は次の通りだった。
エンジンはヤマハのYX-80、2,000cc・DOHCを搭載する。フレームは既存モデルのフレームを使い、足回りは高速用に改良設計する。スタイリングは先方に嘱託として在籍していた海外からのデザイナーによる新しいスタイリングで、ヘッドライトは日本で初めてリトラクタブルを採用する。

幻に終わったスポーツカーのモノコックボディ木型

全体のレイアウトは先方が行い、これに基づいて細部設計と試作をヤマハが行った。全体のレイアウトがしっかり固まっていたことと、既製部品をある程度採用したこともあって、細部設計が始まって10ヵ月で試作車が完成。この試作車は先方が初めて世に送り出す本格的スポーツカーとして、東京モーターショウで発表される予定であった。しかし諸事情によって日の目を見ることなくお蔵入りとなってしまった。

ゆえにこの幻のスポーツカーの存在を知る人は少ない。そしてこの業務提携は2年足らずで解消することになった。

改良型タイスエンジンYX-80(2.0ℓ・DOHC)を搭載し、共同開発した試作車

川上源一社長に試作車について説明する筆者(写真左)

7トヨタ自動車からの依頼

業務提携が解消されてから間もなく、川上社長はトヨタ自動車との接触を始める。先ず両者のトップが会うことになり、トヨタから豊田英二副社長(当時)、豊田章一郎常務(当時)ほか、幹部数名が来社され、清風荘(当時会社の迎賓館として使用していた)で川上社長と面談された。私はその場所に呼び出され、今までやってきた仕事の内容を説明させられた。すごく緊張したことを覚えている。

きっとトヨタは、「これから先の開発の仕事をヤマハに出しても本当に大丈夫だろうか、機密上の問題もあるし他社と業務提携していた経緯もある」と考えていたことだろう。トヨタにとってこの時の来社は、どの程度ヤマハと付き合うべきかの下調べであったに違いない。

その後、トヨタ側から川上社長に来て欲しいという連絡があり、川上社長、仲常務、小野重役、そして私の四名でトヨタに伺うと、豊田副社長、斉藤専務、豊田常務、稲川重役が待っておられた。この席でトヨタからヤマハ発動機に仕事を依頼したいという正式の表示を頂いた。

依頼の内容は「既製エンジンのチューンナップとスポーツ関係の開発、それに伴う少数の生産」で、具体的には次の通りである。

チューンナップはトヨタの既製エンジンのDOHC化である。トヨタとしては各エンジンでOHCとDOHCの両方を持っていたい。DOHCの狙いはGTカーのエンジンにするためで、その最初のエンジンとして(2R)1,500ccのチューンナップに取り掛かりたい。これは1,600ccまでボアアップしてもよいということである。

一方、スポーツ関係の仕事は現在トヨタで計画中の2リッター・スポーツカーの試作をまとめて欲しい。このスポーツカーのイメージは、ヤマハが今までやってきた車とあまり違わないものだが、これについては少し時間がかかると思う。

最後に契約等については、トヨタはこのような仕事を外部に出すのが初めてなので、双方で充分検討してまとめていきたいということであった。窓口はトヨタ側が稲川重役、ヤマハ側は仲常務と決まった。

以上のようにトヨタとヤマハ発動機とのこれからの仕事の基本的な考え方が決まった。1964年(昭和39年)11月のことである。私はホッと胸を撫でおろした。恐らくトヨタ内に先行開発の入手が足りなかったことと、丁度スポーツカーの開発計画を持っていたことが幸いしたのではないだろうか。

8照準は東京モーターショウ

トップ同士で話がまとまると、仕事は早い。5日後には稲川重役、中島エンジン設計部長ほかが来社され、1,500ccの2R、1, 900ccの3RエンジンをボアアップしてDOHC化するプロジェクトの打ち合わせが始まった。毎週トヨタと会議を持つという早さで仕事が進み、チューンナップされたエンジンは国内レースで使用され、性能を確認しつつ実績を作っていった。

これらの仕事とラップするように、その年の暮れに2リッター・スポーツカーの話が持ち込まれた。矢継ぎ早である。トヨタは本格的なスポーツカー「2000GT」を製品企画室・河野主担当のところでレイアウト中であると言う。春頃までには全体のレイアウトが固まるので、その後の細部設計から試作までをヤマハで完成して欲しいということである。

目標は1965年(昭和40年)秋のモーターショウに出品したいというからさあ大変だ。時間は8ヵ月位しかない。

それからは一日おきにトヨタとの打ち合わせを持つ日々が続く。エンジンだけのチューンナップと違い、完成車を作るとなるとトヨタの技術部全てが関係する大きな組織体となるのが常だが、そんなことをやっていたのでは仕事は進まない。

そこでトヨタ製品企画室は、特例としてこのプロジェクトを河野主査(総括)、山崎氏(フレーム、足回り)、野崎氏(デザイン、ボディ)、高木氏(艤装)の4名とヤマハの技術部でまとめることとし、トヨタの組織は原則として使わないという決定を下した。その結果、彼ら4名がトヨタからヤマハに駐在することになり、それからは残業が続く毎日であった。

この車の基本コンセプトは、「日本にない世界レベルの本格的スポーツカーを作る事」であり、当時考えられる新しい技術要素は全部取り入れようとした。エンジンはトヨタのM型6気筒2,000ccのシリンダーブロックを使用して新しいDOHCエンジンを作る。キャブレターはウェーバー40型2連を3個とする。足回りは独立懸架、全輪ディスクブレーキ、マグネホイールを採用。

トヨペットクラウンのエンジンをDOHC化し、出力の大幅アップを図ったトヨタ2000GTのエンジン

フレームは簿板大断面のX型とし、ボディはセミモノコック構造でリトラクタブルヘッドランプを採用する。ステアリングホイールは木製で、薄板を幾重にも重ねた手作り品。シフトノブも木製。計器盤はピアノに使っているのと同質の木に、ピアノの塗装を施す。計器類は全て無反射のコーン型プラスティックガラスを採用する。ボンネットとトランクリッドはFRPの成形品を使用し、その他の外鈑は手叩き鈑金職人が作り出す。当時手叩き鈑金技術のメッカであった京浜地区から、最も良い腕を持った職人さんを高額で採用し、この仕事に当てた。

ピアノ用のマホガニー(木材)と塗装を採用し、木の風合いを活かしたトヨタ2000GTのインストルメンタルパネル。ステアリングホイール、シフトノブも木製。

デザインは野崎氏が米国アートセンタースクールに留学中にストックしたグランツーリスモのコンセプトに基づいて2分の1外形図を作り、これを原寸大の写真に拡大して直接、鍍金用の木製グリッドを制作し、スタイリングをチェックしながら造形したものである。

このようにデザイン作業は途中のレタリングもクレイモデルも無しで、数枚のメモ的スケッチと外形線図のみという簡略な方法で行われた。また設計も細かい部分はメモやスケッチ図で手配するという異例のスピード作業であった。

プレゼン用に線図を基に後に描かれたデザイン担当の野崎氏によるスケッチ(1965年4月)

65年モーターショウ出品するために与えられた製作期間はわずか8カ月足らず。2分の1外形図から直接鍍金用の木製グリッドを制作。造形はスタイリングチェックをしながら行った。

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