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いつの日も遠く ヤマハ発動機開拓時代のうらばなし

モーターサイクルとわたし

8もう一つの仕事

オートバイの仕事の中には開発だけでなくオートバイレースへの参加がある。YA-1は富士登山レースで上位を独占したが、その後レースは浅間高原に舞台を移して行われ、各メーカーはレースこそ「技術の向上」と「品質」の宣伝の最もよい手段と考えて力を入れていた。

専用コースの完成とともに開催された第二回浅間火山レース(1957年)

この浅間高原レースが日本における本格的オートバイレースの幕開けであった。中でも私の印象に残っているのは第二回浅間火山レースである。第一回浅間高原レ―スが公道で行われたのに対して、1957年(昭和32年)10月に行われた第二回浅間火山レースは自動車テストコースで行われた。テストコースといっても浅間の山裾をならしただけの火山灰コースで、走れば火山灰が舞い上がるひどいものである。しかし初めてのレースらしいレースであった。

従来のレース車は一般の市販車を使い、エンジンをチューン・アップし、不必要な部品を取り除いた程度の改造車であったが、第二回浅間火山レースでは初めてレースのために新しい車体を作った。それだけに設計者、ライダーとも大変な熱の入れようであった。
フレームはクレードルタイプを採用し、パイプの材料も超高張力鋼を使用。ライディングポジションは各ライダーの体格と好みに合わせて1台1台設定し、ライダーにぴったりの車体を作った。フロントフォークもシートもリアサスペンションもレース車としての特別設計で、バネ常数もライダーのテクニックに合わせて決めていった。多くのメーカーが出場したが、ヤマハのライバルはホンダ1社に絞り、当然ながら作戦は綿密に進められた。

準備万端、スタートを待つレースチーム

他社には見られない「ドルフィンカウル」を装備したYD-Aレーサー

ホンダが走行練習している時には隠れて必ずタイムを測り、我々は日中の走行時は70~80%のスピードしか出さず、早朝と夕方暗くなってから本当の練習をおこなった。道路は悪いしカーブも多い。連日の練習でエンジンが焼き付き、故障も多かったし、車体もあちこち破損した。
壊れるからといって強度を増して重くするわけにはいかない。そのため何周コースを走るとどこが壊れるかというデータを1ヵ月で取り、ライダー1人に3台の車体を割り当て、自分に最も合った1台をデータに基づいた寿命の半分ぐらいまで乗り慣らして本番用に取っておき、残り2台を使って練習をするようにした。

9再びの快進撃 第2回浅間火山レース

レース前日はライダー以外は徹夜で車の整備に当たる。ボルトも1本1本全部締め直し、その上をワイヤーで廻り止めをするなど、念には念を入れ徹底した仕事をした。一方、エンジンのチューン・アップはレース前日まで浜松の工場のテスト室で行われ、そのエンジンを浅間まで徹夜で運び込んでレースに間に合わせた。

川上社長(右から3人目)を交えての作戦会議

ホンダはエンジンを工場から自家用機で空輸した。こういうことからもレースに賭ける意気込みが感じられるであろう。ヨーロッパでは既に本格的なレースが盛んに行われており、カウリングを着けたマシンも出始めていた。我々もカウリングを着けることにしたが、秘密保持のためテストができず苦心した。カウリングの効果も検証することができなかったし、本番で外れたり、事故を起こしたりすることはないだろうかと不安が尽きなかった。しかし本番には一発勝負でこれを採用した。

レース当日、ヤマハピットにはヤマハとホンダを合わせたライダー数の係員を準備して、1周毎にヤマハ、ホンダ各車のタイムを測定記録し、このデータを基に絶えずヤマハの各ライダーに指示を与えた。そのためピットではレースの成り行きがよく判り、冷静な判断ができた。
ホンダに関する綿密なデータと、練習では全力で走らせなかったことが功を奏して、ヤマハのライダーのうち、野口、伊藤がリタイヤしたものの、益子、砂子、下良の3名は見事に1、2、3位を独占した。レース終盤ではヤマハの各車にスピードを落とす指令をした程の完勝であった。また心配されたドルフィン・カウリングも壊れることなく無事レースを終えて、胸を撫でおろした。

破竹の快進撃で表彰台を独占したヤマハチーム

浜松市内での凱旋パレード

レースの仕事は結果がはっきりと出る。勝たなくてはいくら努力しても、いくら莫大な金をかけても意味がなくなってしまう。それ故に優勝した時の満足感はひとしおであった。レースを経験した者でないと判らない気持ちかもしれない。当時オートバイはヨーロッパが全盛で、レースのレベルにも日本とは大きな差があった。日本のオートバイがヨーロッパに進出するなどとは夢にも思わぬ時代であった。

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