World GP500/Moto GP
2009年 企画展 Vol. 3
頂点をめざして YAMAHA Motorcycle Racing History - since 1955・総集編
ロードレース世界選手権(WGP)125cc/250ccクラスで数々の栄光をつかんだヤマハ発動機は、4年間のファクトリー活動休止を経て、再び動き始めた。1973年、最高峰500ccクラスへの挑戦である。しかし、2ストローク・ピストンリードバルブ吸気・並列4気筒エンジンの「YZR500(0W20)」を新開発して臨んだ最初のシーズンは、レース中の事故でヤーノ・サーリネンを失い、継続を断念。翌'74年、ジャコモ・アゴスチーニを獲得して再起をはかり、メーカーチャンピオンを獲得したものの、ライダータイトルには届かなかった。そこで'75年、マシンを軽量・コンパクトな「YZR500(0W23)」にスイッチ。ようやく念願の頂点にたどり着いた。
だが、喜びも束の間。同じ2ストロークマシンで参戦するスズキのバリー・シーンに'76年・'77年連続でタイトルを奪われてしまう。それに対してヤマハは、アメリカのAMAグランドナショナルチャンピオン、ケニー・ロバーツをエースとして抜擢。またエンジンのトルクの谷を解消するYPVSやアルミフレームなど新しい技術の開発を積極的に進め、'78年から'80年まで3年連続チャンピオンを獲得した。
伝統の2ストロークエンジンも、強力な包囲網を敷くスズキや進境著しいホンダに対抗するため、並列4気筒からスクエア4気筒、画期的なV型4気筒へと進化。'83年、ロバーツがフレディ・スペンサーと熾烈なチャンピオン争いを演じた「YZR500(0W70)」は、V4エンジンとアルミデルタボックスフレームの新パッケージを確立した記念碑的モデルである。そしてロバーツの後を受けたエディ・ローソンは、'80年代を通じて3度、ヤマハとともに世界チャンピオンに輝いた※。
1980年代後半から'90年代序盤、ロードレース世界選手権(WGP)500ccクラスでは、エディ・ローソンやワイン・ガードナーを脅かす存在としてウェイン・レイニー、ケビン・シュワンツ、マイケル・ドゥーハンなど若手ライダーが次々に台頭。各社のファクトリーマシンもアルミフレームとV型4気筒エンジンがスタンダード化し、戦力はほとんど拮抗。史上まれに見る混戦の時代を迎えた。
そのなかでヤマハ発動機は、フレーム構造やエンジンの見直しに加え、走行データ収集やサスペンション制御に電子技術を応用。1レースごとにきめ細かなセッティングで本来の性能を引き出すことができるよう配慮し、アドバンテージを握った。
すると'90年、ローソンに続いてケニー・ロバーツのもとで腕を磨いたレイニーがその実力を発揮し、「YZR500(0WC1)」で初の世界チャンピオンを獲得。その後も強力なライバルたちとの接戦をしのぎ、ロバーツ以来の3連覇を成し遂げた。
しかし'93年、レイニーがレース中のアクシデントで現役を退くと、ヤマハはタイトルを取り戻せないまま、新たな時代を迎えることになった。4ストローク・990ccマシンによる最高峰レース、MotoGPクラスの始まりである。
2002年、ヤマハが投入したマシンは、並列4気筒エンジン搭載の「YZR-M1」。2ストロークに慣れたライダーでも違和感のない出力特性、軽快な操縦性に配慮し、優れたトータルパフォーマンスを追求した。そして'04年、卓越したライディング技術と開発能力を兼ね備えたバレンティーノ・ロッシの加入によって、チーム戦力は飛躍的に向上。開幕戦から9勝を挙げてヤマハチーム初のMotoGPチャンピオンを獲得し、創立50周年の'05年と'08年、'09年にはライダー/メーカー/チームの3冠制覇を達成した。
※ヤマハで'84年、'86年、'88年。ホンダでは'89年に個人4回目のタイトルを獲得。
上記の内容は、2009年シーズン終了時のものです。
<ブース展示車両>
前期展示、または後期展示アーカイブの車両解説へリンクしています。
カテゴリー | 年式 | 機種名 |
World GP500 / Moto GP [ロードレーサー] |
1974 | |YZR500(0W20)| |
1975 | |YZR500(0W23)| | |
1978 | |YZR500(0W35K)| | |
1983 | |YZR500(0W70)| | |
1984 | |YZR500(0W76)| | |
1992 | |YZR500(0WE0)| | |
2002 | |YZR500(0WL9)|YZR-M1(0WM1)| | |
2004 | |YZR-M1(0WP3)| |