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XT500 開発者インタビュー

展示コレクションの関連情報

ヤマハにとっても、技術者としても新たなチャレンジだった

PROFILE

大城信昭氏
(おおしろ・のぶあき)
TT500/XT500のエンジン設計
担当
岡野良造氏
(おかの・りょうぞう)
TT500/XT500の車体設計担当
杉崎昌盛氏
(すぎざき・まさもり)
TT500/XT500のエンジン実験
担当

大城:TT500/XT500の開発当時は、会社として4ストロークを強化したいという強い意思がありました。それで開発部門の組織を変更し、第1設計部は2ストローク、第2設計部では4ストロークモデルの開発に専念。実験部はその両方に関わる、ということになったわけです。つまりTT/XTは、第2設計部と実験部の共同作業によって生まれたことになります。

岡野:私はそれまでトヨタ2000GTやスノーモビルの設計をやっていたのですが、第2設計部に異動してTT/XTの車体設計を担当させてもらいました。



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1976年発売の国内向けXT500

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アメリカに試作車を持ち込んでテスト

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左が大城氏。トレーラーに積んであるのはTT500

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1976年モデルのUS向けTT500

杉崎:私は実験部に籍を置いて、主にエンジン機能の実験を担当しました。4ストロークでは、以前XS-1のチューニングをやっていて、そちらが一段落したところでTT/XTの仕事に移ったんです。

大城:TT500はヤマハ発動機にとって初めての4ストローク・単気筒エンジンでしたが、私はそれまでFX50やGT80といった2ストロークエンジンの設計をやっていましたので、自分自身にとっても新しいチャレンジでしたね。当時、まだ28歳だったと思います。

岡野:そうですね、みんな若かった。若くて血の気が多くて、喧嘩もよくして(笑)。

大城:あの当時の会社の4ストロークに賭ける思いというのは、かなり本腰でしたね。世界的な4ストローク化のトレンドが背景としてありましたし、大きな市場であるアメリカでマスキー法という厳しい排ガス規制が議会を通ったころでした。TT/XTの企画自体もアメリカから出てきたもので、ロサンゼルスにあるヤマハモーターUSの企画担当者から「4ストロークのビッグシングルを載んだプレイバイクが欲しい」という要望された。

杉崎:それ以前に、SC500という2ストローク単気筒500ccの海外向けスクランブラーがありましたけど、いかんせんボアが大きすぎてあまり評判がよくありませんでした。そういうこともあって、4ストロークのビッグシングルという発想だったのでしょう。

岡野:やはり4ストローク・500ccシングルで、イギリスのBSAビクターというモデルがアメリカのミドルエイジに根強い人気があった。彼らはそのビッグシングルで砂漠を走ったり、森を走ったり、そうやって楽しんでいた。少しノスタルジックなムードもあったし、アメリカ人はもともと耐久性のある4ストロークが好きなんですよ。古い車をいつまでも持っている姿を見るとつくづくそう思います。

大城:ドゥカティにも450cc単気筒のスクランブルモデルがあって、当時はそれを改造して乗っている人も少なくありませんでした。最初500ccの単気筒と聞いて、当時の技術担当役員が「エンジン1回転で2~3m走る、そんな感じかな」と話していたのを覚えています。私もそういうイメージを持ってプロトエンジンを作ったのですが、最初の社内プレゼンテーションで、「違う。オフロードでがんがん走るんだ」と言われて方向性を理解しました。プロトエンジンは、TX750(OHC・並列2気筒)のシリンダーヘッドやガスケットを使った465ccで、ボア × ストロークが84mmスクエアでした。

杉崎:そのエンジンを仮に作った車体に載せて、アメリカの現地プレテストに持って行きました。車体は確かSC500ベースでしたね。そこで実際に使われるシーンを確認して、XT500のはっきりとしたコンセプトが見えてきたわけです。

岡野:想定したもっともポピュラーな使われ方は、カリフォルニアの砂漠を突っ走ること。ドライレイクもあればガレ場も、マウンテンも川渡りもあった。ウィークエンドのプレイバイクですね。トレーラーにバイクを乗せてキャンプがてら出かけて行って、OHV(オフ・ハイウェイ・ビークル)パークを思い切り走る。だから楽しく遊べるということが何より大事。とはいえ私もモーターサイクルの担当は初めてだったので、本当のところどうなのか、よく分かっていなかった。それで1974年の10月から、試作車を持ってアメリカへテストに行かせてもらいました。ロス近郊を走りまわり、それから4日かけてミズーリ州まで足を延ばしました。

大城:開発の過程では、耐久性をかなり意識しました。通常の基準よりかなり厳しい目標値を設定し、入念にテストしたんです。

杉崎:TT/XTのエンジン潤滑はドライサンプ。焼きつきにかなり気を使い、まずオイル循環を確実に押さえようと心がけました。オフロードモデルですから、車体がどれだけ傾くかわからない。どんな体勢になっても、しっかりオイルが戻ってくるようにしなければならなかった。

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岡野:オイルタンク・イン・フレームの例は、以前BSAにもありましたが、オイルの循環量やポンプの大きさ、比率がまったく違う。オイルを滞留させず、常にフレッシュに循環する形にしたいということで、杉崎さんはずいぶん苦労していましたよね。

杉崎:ええ。オイルの流れを目で確かめるためにクリアパイプで再現し、どこで滞留するかを調べました。

岡野:初めてのビッグシングルということで、振動対策も入念にやりましたね。シャーシダイナモを使ったカムドラム耐久テストの最中、エンジンの後ろを懸架しているフレームが何度も壊れて、最初はパッチをあてたりして対応していたのですが、ついにパイプを太くしたり、肉厚を上げたり……(笑)。

大城:TTは、軽量化のためになんでも徹底的にやった。コストに1円かけて1グラム減るのであれば、それを選択する。よく「1グラム1円」なんて言ってましたね。クランクケースカバーもマグネシウム製です。当時、マグネシウムはトヨタ2000GTのホイールに使ったくらいで、二輪の生産モデルに使うなんて画期的なことでした。

岡野:マグネシウムは酸化すると非常にもろくなるので、ホイールでもレーサーにしか使わない。大城さんはそういう材料にあえてトライしたし、車体のほうもTTでアルミタンクを使って軽量化しました。

大城:エンジンについては、軽くコンパクトで、美しく仕上げたい。それから耐久性。この4つをすべて成し遂げたいと考えていました。

岡野:外観はもちろん、性能も当初の狙いどおり、いやそれ以上に低速トルクのある素晴らしいエンジンでした。従来のオフロードタイヤで走ると、パターン表面のブロックが根元から千切れ飛んだくらいですから(笑)。

大城:思い出深いのはキック始動の耐久テスト。慣れてくれば簡単ですが、下手をすると5回、10回蹴っても掛からず、そのうちサイドスタンドが負けてへたってくる(笑)。完全な体力勝負で、順番を決めて一人100回ずつ、合計10000回キックテストを行いました。その過程で点火系の改良もしたのですが、驚くことにそんなエンジンを手で掛けてしまったアメリカ人がいました。あれには驚きましたね。まるで力が違う。

岡野:私にとって印象深いのは、燃料タンクの設計です。走る場所が広いので、容量はどうしても8リッターを確保したかった。ところがデザイナーは、スリムでスタイリッシュな小さいタンクを主張してゆずらない。毎日ケンカのような議論を繰り返し、折り合いがつかないもんだから、こっそりモックアップに自分で作った木型を乗せたこともありました(笑)。もちろん、すぐバレましたけど、それくらいのせめぎ合いがあったからこそ、いいものができたのだと思います。

大城:TT500はアメリカのダートトラックやエンデューロ、そして氷上レースで勝ち続け、瞬く間にヒットしました。続いてパリダカの第1回(1979年、1位・2位入賞)、第2回大会(1980年、1位~4位入賞)と連覇して、ヨーロッパにもその人気が波及するわけです。結局、アメリカよりヨーロッパで長く売れましたね。

岡野:大城さんに無理をお願いして、ヨーロッパの各国市場に合わせた仕様車を作ってもらったことが大きかった。オーストリアの小さな市場のためだけに、400ccを作ったほどですから。

大城:XT500は、日本人の体格に対して大き過ぎると思われたのか、国内では海外ほど売れなかったのが残念。しかしその分、同じエンジンを使ったSR500/400が多くのファンに愛されました。ひと言で言えば、スジのいいエンジン、言い換えれば基本レイアウトの良いエンジンだったと、30年以上経った今でも自信を持っています。

※このページのプロフィール、および記事内容は、2004年3月の取材によるものです。
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