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XT500 開発ストーリー

展示コレクションの関連情報

開発ストーリー

初の4ストローク・単気筒トレールという選択

 4ストローク・単気筒エンジンを搭載したXT500が初めて国内にお披露目されたのは、1975年に行われた第21回東京モーターショーの会場だった。1968年にデビューしたDT-1以来、モーターショーのたびに次々とトレールモデルを発表してきたヤマハ発動機にとって、XT500はそのライン上にあるモデルとも、またまったく新しいコンセプトのもとに生まれてきたモデルであるとも言えた。
 DT-1によって日本国内に紹介されたトレールの世界は、トレールランドの拡大とともに息の長いブームとなり、モデルのラインナップも拡充して一大カテゴリーを形成していた。そうした観点からXT500のデビューがその延長線上にあるものと捉えられるのも自然な話であったし、発想の根源がアメリカの大地を相手にしたプレイバイクであることも両者の重要な共通点だった。
 一方で、そのパワーソースに着目すると、また違った捉え方をすることができた。500cc・4ストローク・単気筒エンジンは、ヤマハ発動機にとって初めてだったが、世界的に見てビッグシングルという流れは当時すでに衰退しかけていたのが実情だった。わずかにBSAをはじめとする英国車にその系譜を見て取ることができたが、そうした名だたる欧州ブランドもシングルを搭載したニューモデルをもう長いこと発表していなかった。長いストロークが生み出す上下振動はある特定の層に魅力的ではあっても、高性能な多気筒エンジンが次々登場するなかで、大排気量の単気筒エンジンはもはや時代遅れの「杭打ち機」とみなされていたのだ。

第1回ダカールラリー優勝で、人気は北米から欧州へ拡大

 そうした時代にヤマハ発動機があえてビッグシングル・トレールに挑戦したのは、「力にまかせて大地を突っ走る」というアメリカの企画担当者から寄せられた注文に、シンプルかつ忠実に応えるための必然だった。その考えは、4ストロークエンジンのバリエーションを増やし、強化したいという当時の会社の背景にもマッチしていた。そして「軽く、コンパクトで、高い耐久性を誇り、なおかつ美しい」という明確な開発の狙いを持ったエンジン設計がスタートするが、この時点で既にロードスポーツモデルへの搭載も視野に入れられていた。
 一方、車体設計においては「ビッグシングルの振動とタフな走りに耐える」頑丈さ、そしてやはり極限までの軽量化がテーマとされた。特に軽量化については「1グラム1円」という合言葉のもとに、妥協のない作り込みが行われた。同時開発された競技用エンデューロマシンTT500では、さらに軽量化を進め、クランクケースカバーにマグネシウムが使われたり、燃料タンクにアルミが用いられたりしている。
 また、車体のスリム化を実現する一つのトライとしてセミダブルクレードルフレームが採用され、そのメインチューブとダウンチューブをエンジンオイル経路に活用するオイルタンク・イン・フレームという技術も国産モデルで初めて用いられた。
 そして1975年、まずアメリカ向けにエンンデューロマシンTT500が、続いて1976年に保安部品を装備したXT500が国内と海外で発売され、特にアメリカでは荒野を豪快に突っ走るウィークエンドのプレイバイクとして瞬く間に大ヒット。さらに各種エンデューロレースでも連戦連勝の活躍を見せた。
 またヨーロッパ市場でも、XT500は予想をはるかに超える人気を集めた。1979年の第1回パリ・ダカールラリーでワンツー・フィニッシュを飾り、続く第2回大会では1位から4位を独占。フランスやドイツのファンから熱狂的に支持された。その後XTブランドは、テネレシリーズを経てアドベンチャーライディングの代名詞となり、現在もヤマハ発動機の4ストロークトレールの発展を支えている。
 一方、多くの日本人にとって、XT500のシート高835ミリという車体スペックは体格的に難しい条件となったが、ロングツーリングを楽しむ若い世代に人気を博した。そして1978年、この単気筒エンジンをそっくり受け継いだロードスポーツSR500/400が発売され、世代を超えた幅広いファンを獲得。類い稀な超ロングセラーとなった。

※このページの記事は、2004年3月に作成した内容を元に再構成したものです。

・企画展「パリ・ダカールへの挑戦 ~20年間の軌跡~」はこちらへ >>

開発者インタビュー

PROFILE
大城 信昭氏 (おおしろ・のぶあき)
TT500/XT500のエンジン設計担当

岡野 良造氏 (おかの・りょうぞう)
TT500/XT500の車体設計担当

杉崎 昌盛氏 (すぎざき・まさもり)
TT500/XT500のエンジン実験担当

ヤマハにとっても、技術者としても新たなチャレンジだった

大城:TT500/XT500の開発当時は、会社として4ストロークを強化したいという強い意思がありました。それで開発部門の組織を変更し、第1設計部は2ストローク、第2設計部では4ストロークモデルの開発に専念。実験部はその両方に関わる、ということになったわけです。つまりTT/XTは、第2設計部と実験部の共同作業によって生まれたことになります。

岡野:私はそれまでトヨタ2000GTやスノーモビルの設計をやっていたのですが、第2設計部に異動してTT/XTの車体設計を担当させてもらいました。



杉崎:私は実験部に籍を置いて、主にエンジン機能の実験を担当しました。4ストロークでは、以前XS-1のチューニングをやっていて、そちらが一段落したところでTT/XTの仕事に移ったんです。

大城:TT500はヤマハ発動機にとって初めての4ストローク・単気筒エンジンでしたが、私はそれまでFX50やGT80といった2ストロークエンジンの設計をやっていましたので、自分自身にとっても新しいチャレンジでしたね。当時、まだ28歳だったと思います。

岡野:そうですね、みんな若かった。若くて血の気が多くて、喧嘩もよくして(笑)。

大城:あの当時の会社の4ストロークに賭ける思いというのは、かなり本腰でしたね。世界的な4ストローク化のトレンドが背景としてありましたし、大きな市場であるアメリカでマスキー法という厳しい排ガス規制が議会を通ったころでした。TT/XTの企画自体もアメリカから出てきたもので、ロサンゼルスにあるヤマハモーターUSの企画担当者から「4ストロークのビッグシングルを載んだプレイバイクが欲しい」という要望された。

杉崎:それ以前に、SC500という2ストローク単気筒500ccの海外向けスクランブラーがありましたけど、いかんせんボアが大きすぎてあまり評判がよくありませんでした。そういうこともあって、4ストロークのビッグシングルという発想だったのでしょう。

岡野:やはり4ストローク・500ccシングルで、イギリスのBSAビクターというモデルがアメリカのミドルエイジに根強い人気があった。彼らはそのビッグシングルで砂漠を走ったり、森を走ったり、そうやって楽しんでいた。少しノスタルジックなムードもあったし、アメリカ人はもともと耐久性のある4ストロークが好きなんですよ。古い車をいつまでも持っている姿を見るとつくづくそう思います。

大城:ドゥカティにも450cc単気筒のスクランブルモデルがあって、当時はそれを改造して乗っている人も少なくありませんでした。最初500ccの単気筒と聞いて、当時の技術担当役員が「エンジン1回転で2~3m走る、そんな感じかな」と話していたのを覚えています。私もそういうイメージを持ってプロトエンジンを作ったのですが、最初の社内プレゼンテーションで、「違う。オフロードでがんがん走るんだ」と言われて方向性を理解しました。プロトエンジンは、TX750(OHC・並列2気筒)のシリンダーヘッドやガスケットを使った465ccで、ボア × ストロークが84mmスクエアでした。

杉崎:そのエンジンを仮に作った車体に載せて、アメリカの現地プレテストに持って行きました。車体は確かSC500ベースでしたね。そこで実際に使われるシーンを確認して、XT500のはっきりとしたコンセプトが見えてきたわけです。

岡野:想定したもっともポピュラーな使われ方は、カリフォルニアの砂漠を突っ走ること。ドライレイクもあればガレ場も、マウンテンも川渡りもあった。ウィークエンドのプレイバイクですね。トレーラーにバイクを乗せてキャンプがてら出かけて行って、OHV(オフ・ハイウェイ・ビークル)パークを思い切り走る。だから楽しく遊べるということが何より大事。とはいえ私もモーターサイクルの担当は初めてだったので、本当のところどうなのか、よく分かっていなかった。それで1974年の10月から、試作車を持ってアメリカへテストに行かせてもらいました。ロス近郊を走りまわり、それから4日かけてミズーリ州まで足を延ばしました。

大城:開発の過程では、耐久性をかなり意識しました。通常の基準よりかなり厳しい目標値を設定し、入念にテストしたんです。

杉崎:TT/XTのエンジン潤滑はドライサンプ。焼きつきにかなり気を使い、まずオイル循環を確実に押さえようと心がけました。オフロードモデルですから、車体がどれだけ傾くかわからない。どんな体勢になっても、しっかりオイルが戻ってくるようにしなければならなかった。

岡野:オイルタンク・イン・フレームの例は、以前BSAにもありましたが、オイルの循環量やポンプの大きさ、比率がまったく違う。オイルを滞留させず、常にフレッシュに循環する形にしたいということで、杉崎さんはずいぶん苦労していましたよね。

杉崎:ええ。オイルの流れを目で確かめるためにクリアパイプで再現し、どこで滞留するかを調べました。

岡野:初めてのビッグシングルということで、振動対策も入念にやりましたね。シャーシダイナモを使ったカムドラム耐久テストの最中、エンジンの後ろを懸架しているフレームが何度も壊れて、最初はパッチをあてたりして対応していたのですが、ついにパイプを太くしたり、肉厚を上げたり……(笑)。

大城:TTは、軽量化のためになんでも徹底的にやった。コストに1円かけて1グラム減るのであれば、それを選択する。よく「1グラム1円」なんて言ってましたね。クランクケースカバーもマグネシウム製です。当時、マグネシウムはトヨタ2000GTのホイールに使ったくらいで、二輪の生産モデルに使うなんて画期的なことでした。

岡野:マグネシウムは酸化すると非常にもろくなるので、ホイールでもレーサーにしか使わない。大城さんはそういう材料にあえてトライしたし、車体のほうもTTでアルミタンクを使って軽量化しました。

大城:エンジンについては、軽くコンパクトで、美しく仕上げたい。それから耐久性。この4つをすべて成し遂げたいと考えていました。

岡野:外観はもちろん、性能も当初の狙いどおり、いやそれ以上に低速トルクのある素晴らしいエンジンでした。従来のオフロードタイヤで走ると、パターン表面のブロックが根元から千切れ飛んだくらいですから(笑)。

大城:思い出深いのはキック始動の耐久テスト。慣れてくれば簡単ですが、下手をすると5回、10回蹴っても掛からず、そのうちサイドスタンドが負けてへたってくる(笑)。完全な体力勝負で、順番を決めて一人100回ずつ、合計10000回キックテストを行いました。その過程で点火系の改良もしたのですが、驚くことにそんなエンジンを手で掛けてしまったアメリカ人がいました。あれには驚きましたね。まるで力が違う。

岡野:私にとって印象深いのは、燃料タンクの設計です。走る場所が広いので、容量はどうしても8リッターを確保したかった。ところがデザイナーは、スリムでスタイリッシュな小さいタンクを主張してゆずらない。毎日ケンカのような議論を繰り返し、折り合いがつかないもんだから、こっそりモックアップに自分で作った木型を乗せたこともありました(笑)。もちろん、すぐバレましたけど、それくらいのせめぎ合いがあったからこそ、いいものができたのだと思います。

大城:TT500はアメリカのダートトラックやエンデューロ、そして氷上レースで勝ち続け、瞬く間にヒットしました。続いてパリダカの第1回(1979年、1位・2位入賞)、第2回大会(1980年、1位~4位入賞)と連覇して、ヨーロッパにもその人気が波及するわけです。結局、アメリカよりヨーロッパで長く売れましたね。

岡野:大城さんに無理をお願いして、ヨーロッパの各国市場に合わせた仕様車を作ってもらったことが大きかった。オーストリアの小さな市場のためだけに、400ccを作ったほどですから。

大城:XT500は、日本人の体格に対して大き過ぎると思われたのか、国内では海外ほど売れなかったのが残念。しかしその分、同じエンジンを使ったSR500/400が多くのファンに愛されました。ひと言で言えば、スジのいいエンジン、言い換えれば基本レイアウトの良いエンジンだったと、30年以上経った今でも自信を持っています。


※このページのプロフィール、および記事内容は、2004年3月の取材によるものです。

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