RZV500R 開発ストーリー
展示コレクションの関連情報
開発ストーリー
すべてはRZ250が始まりだった
1979年、"最後の2ストロークピュアスポーツ"として東京モーターショーに登場したヤマハRZ250は、翌年の発売と同時に爆発的な大ヒットを記録。優美で挑発的なスタイリング、乾燥139kgの軽量な車体を35PSのハイパワーで引っ張る強烈な加速感は、図らずも多くのバイクファンから「まるでレーシングマシンのようだ」と表現され、"レーサーレプリカ"の大きなムーブメントにつながっていく。それはまた、4ストローク化の波に押され消えていく運命にあった2ストロークスポーツを、もう一度主役の座に引き戻す原動力ともなった。
さて、この成功に勢いを得たヤマハ発動機は、続いて海外向けのRD350LCをRZ350として国内に導入。1982年にはYPVSを装備するRZ250R/350Rへとモデルチェンジし、2ストロークスーパースポーツの市場拡大、復権をリードしていく。
こうした流れにいち早く反応したのはホンダ。1982年、4ストロークレーサーNR500の技術を取り入れたVT250Fで2ストロークに対抗の烽火を上げる一方、翌年にはユニークな2ストローク3気筒エンジン搭載のMVX250Fを投入。さらに同年、スズキがアルミフレーム採用でレーシングマシンそっくりの外観を持つ2ストロークモデルRG250γをリリース。カワサキも1984年に2ストロークタンデムツインのKR250を発売し、4社競合のブームはまさに2ストロークエンジンのごとく一気に加速していった。
そして、22年ぶりの開催となる世界GP・日本ラウンド(鈴鹿)開催を4年後に控えた1983年10月、ついに究極の2ストローク・レーサーレプリカが東京モーターショーに登場する。500cc・V4エンジン搭載のヤマハRZV500Rである。
最初で最後の正真正銘"YZR500"レプリカ
RZV500R(海外向けRD500LC)の企画は、RZ350発売のあとを受け、1982年にスタートした。"2ストロークのヤマハ"らしいフラッグシップモデルを、という方針のもとで導き出された開発コンセプトは明快。世界GP500クラスで3連覇を果たした"キング"ケニー・ロバーツが駆る、最新型ファクトリーマシン"YZR500(OW61)レプリカ"を作ることだった。
しかし、純然たるファクトリーレーサーと市販車では、求められる機能も性能もまったく異なる。YZR500の何をエッセンスとして取り込み、どういうキャラクターのマシンに作り込んでいくのか。RZV500R開発スタッフは3つの目標を設定した。
まず第1に、YZR500レプリカらしい卓越した走行性能を備えていること。2つ目は、市販車フラッグシップにふさわしく快適で、信頼性、安全性に優れていること。3つ目は、すべてのバイクファンが憧れるクオリティを備えていること。
これらを達成するために、エンジンはOW61と同じ2軸クランクの水冷2ストローク・V型4気筒を採用した。簡単にいえば、250ccの並列2気筒を前後に2機並べたような構造で、横幅が狭く、軽量・コンパクトに抑えられることが最大のメリットである。また車体も、ホイールベースをOW61に近づけ、250cc市販車並みの1375mmに設定。その相乗効果によって、いっそう軽快なハンドリングと深いバンク角の実現をめざした。
しかし、ここまでボディサイズを制限し絞り込んでしまうと、エンジン周辺に必要なエアクリーナーやキャブレター、マニホールド、さらには4本のチャンバーマフラーなど、吸排気系の配置や取り回しに大きな影響が生じる。特に2ストロークエンジンの場合、その善し悪しが性能に直結するため、開発スタッフは少ないスペースを最大限有効に使いながら十分な性能を確保する方法にもっとも頭を悩ませた。
隙間なく迷路のようにレイアウトされた吸気システム。必要な容積を稼ぐため、クロスし、サイレンサー内でさらに反転しながら、グラマラスなシートカウルに美しく収まった後方排気システム。エンジン下部の前側マフラーと干渉しないよう、水平にレイダウンされた独特のリンク式モノクロスリアサスペンション……。これらはすべて、省スペース性と機能・性能を妥協せず、ハイレベルで両立するために考え出された成果である。
ところが、どうしても若干の妥協をせざるを得ない部分があった。OW61のようなレーサーは一人乗りだから、それに最適化した前後荷重配分とライディングポジションを与えて、ハンドリングを決めればよい。しかしRZV500Rは、市販車として二人乗りを放棄するわけにいかず、ベストな前後荷重とハンドリングを確保するためライディングポジションをOW61よりも前方に移さなければならなかった。
「残念なのは、それによって、理想としていたレーサーらしいスタイリングをややスポイルしてしまったことだ」と、車体担当の開発チーフは述懐している。比べてみなければ気にならない程度の違いではあるが、当時のスタッフがどれほど"究極のレプリカ"にこだわっていたかを物語るエピソードだ。
"2ストロークのヤマハ"を極めた正統派スポーツ
さて、RZ250の登場によって花開いた"レーサーレプリカ"は、その後世界GPをイメージリーダーとする2ストロークモデルと、鈴鹿8時間耐久レースを頂点とする4ストロークモデルの二派に分かれ、それぞれ時代の最先端を競うように次々と世代交代を繰り返しながら発展を遂げていく。
特に1980年代半ばから後半にかけて、国内では世界GPの人気が急上昇。ケニー・ロバーツやエディ・ローソン、ウェイン・レイニー、フレディ・スペンサー、ワイン・ガードナー、ケビン・シュワンツといったスター選手が500ccクラスで覇を競い、1987年の日本GPには決勝日だけで9万8000人が詰めかけるほど盛り上がりを見せた。
それだけに、RZV500Rも4ストローク・750ccモデルと並んで"レーサーレプリカ"市場を牽引するかと期待を集めたが、販売面では振るわず、およそ2年間で国内3,700台、海外10,200台弱(RD500LC)にとどまり、追随したホンダNS400R、スズキRG400γ/500γも短命に終わってしまう。
そして、今や世界GPはMotoGPと名を変えて4ストロークマシンに一新され、2ストロークの市販スポーツモデルもすでにない。"2ストロークのヤマハ"を象徴するプレミアムなフラッグシップとして生まれながら、一代限りでその使命を終えたRZV500Rは、かつて2ストローク全盛期に君臨した"ラストエンペラー"だったといえよう。
※このページの記事は、2004年10月に作成した内容を元に再構成したものです。
開発者インタビュー
PROFILE
橋本 秀夫氏
(はしもと・ひでお)
RZV500Rの初期プロジェクトリーダー、車体設計担当
高田 正隆氏
(たかだ・まさたか)
RZV500Rエンジン設計担当
鈴木 章高氏
(すずき・あきたか)
RZV500Rエンジン実験担当
福沢 美好氏
(ふくざわ・みよし)
RZV500Rの走行実験リーダー
社長のひと言で決まった開発計画
橋本:RZV500Rは、RZ350を国内導入したあと、企画を作り始めたんだよね。RZ250のおかげで「ヤマハの2ストロークはスゴイ」という評判がたって、「これはもう行くところまでいくしかないんじゃないの?」と。
高田:当時、ケニー・ロバーツが世界GPで3連覇したあと、V4エンジンのYZR500(OW61)を走らせていたところで、すごく勢いがあったから「よし、あのレプリカを作ろう!」って話になったんですよ。
橋本:ところがそのスケッチを描いている頃、社長に1回目の製品プレゼンテーションをしろと言われてね……。レースの成績はともかく、会社の業績が思わしくない頃だったから、こりゃ沈没するなあと半分あきらめていたら、「こういうモデルこそ今やらなきゃいかんな、ヤマハ発動機は」とOKが出た。うれしいのと、これは大変だ、という複雑な心境でしたね。
鈴木:でも、よくOKが出ましたね。
橋本:うん。RZも「ほんとうの2ストロークスポーツはこうだ」と思い切って作ったけれど、RZVはそれ以上に究極の2ストロークフラッグシップ、ファクトリーレーサーのレプリカを作ろうとしたわけで、売れるとか売れないとか考えてなかったからね(笑)。
高田:FJ1100とかFZ400とか、売れそうなモデルの企画は他にあったし……。
橋本:そうそう。社員やディーラーさん、販売店さんまで、みんな意気消沈していましたから、社長はどうすればヤマハ発動機が元気になるかと考えていたんじゃないかな。これをやったら儲かるぞ、なんてことよりも、「さすがヤマハ発動機はスゴイ!」と思わせる精神的なカンフル剤が必要だと……、たぶんね(笑)。
福沢:だからこそ、よけい妥協はできなかった。
橋本:エンジンの形態にもこだわったし、車両の形態にもこだわった……。我々は市販車しか作ったことがないけれど、最初からOW61を作ったレーサー部門から、いろいろと技術的なネタを仕込んで、レーサーレプリカといわれて恥ずかしくないものを作ろうとしたわけです。
高田:でも、残念ながらあんまり売れなかったなあ。
福沢:パワーウェイトレシオが国内仕様で2.7、海外向けのフルパワーモデルだと2.0。レーサーでも1.8とか1.7っていう時代だから、簡単には乗りこなせないですよ。
鈴木:価格も高かったしね。82万5000円? 当時の750ccスポーツが65万円くらいだったから、そう簡単には買えない。
橋本:いや最初は限定販売にしたくらいで、売れようが売れまいが関係ない。この商品の価値をわかってくれるファンが必ずいるんだと信じて作った、いわば「特別なお客さまのために用意したプレミアムな1台」なんだから。
絶妙な吸排気のバランスで成り立つV4
橋本:最初に仕様が決まったのは、OW61と同じ、2ストローク500ccのV4エンジン。それをもとにスケッチを起こしながら、やはりOW61を目標に、できるだけ軽量・スリム・コンパクトな車体にしようとホイールベースを1375mmに決めたんだよね。
高田:私に話が回ってきた時は、V4エンジンの大まかなレイアウトまで決まっていて、バランサーをどうしようかとか、キャブレターをどうやって収めようかとか、そういう部分をすり合わせながら詳細を詰めていったんです。
福沢:確か、バランサーを2本のクランク軸の間に挟むために、Vバンクを広げて50度にしたんじゃないかな。
高田:そこにキャブレターとマニホールド、そしてエアクリーナーを収めなきゃいけないから、本当は50度でも大変だった。
鈴木:ヘッドパイプの後ろにエアクリーナーがあって、そこからダクトで左右に吸気を分け、それぞれ車体の外側から前後2気筒分のキャブレターにつながり、キャブレターから混合気がL字型のマニホールドを通って4つのシリンダーに入る……(笑)。かなり知恵の輪的なレイアウトです。
高田:そう、90度曲がるんですよ、吸気マニホールドが。すると当然吸気の流れにロスが発生するので、試作品を作って検証した覚えがある。
鈴木:でも私が一番気になったのは、前と後の気筒で吸気方式が異なること。前列2気筒はクランク室リードバルブ、後列はピストンリードバルブという特殊なレイアウトだったんです。別のエンジンをやっていた時に、クランク室リードの方が出力的に有利で、ピストン打音というメカノイズも低いことがわかっていたから、クランク室リードにそろえて欲しいと主張したんですが、いろいろ努力した結果うまくいかず、性能開発でずいぶん苦労しました。後列気筒は吸気方法が違うだけでなく、排気管の長さを確保するのも難しくて、なかなか前列と同等の性能に届かなかった。
高田:だから最初は、前と後ろを別々に性能開発したんだよね。
鈴木:わざわざ2気筒ずつ、吸気方法とマフラーの取り回しが異なるエンジンを手作りして、性能開発して、キャブレターセッティングして、それを合体してベンチに架けるんです。ところが、2本のクランク軸出力がバラバラだと、不正燃焼を起こしてギクシャクしてしまう。そこで、うまくバランスを取るためにキャブレターセッティングがすごく重要になる。ベンチで見当を付けておいて、福沢さんと2人でテストコースへ行き、現場でああでもないこうでもないと試行錯誤の連続でした(笑)。
福沢:そうでしたね~。吸気システムが前後で違うし、爆発順は斜めたすき掛け、排気管の取り回しもバラバラ。2つどころか、4つ別々のエンジンを繋いでいるようなものだから、キャブレターセッティングも気筒ごとに違うんです。アクセルをパッと開けた時にコンマ2、3秒のタイミングで"燃える感じ"をつかもうとするんですが、なかなか4発がそろわない。これは4番気筒がガスを欲しがってるとか、3番はニードルを少し絞らなきゃとか、そういう判断力を養ういい勉強になりました。でもそのうち、4つの気筒のチームワークができてくる(笑)。最初はバラバラバラバラって回ってたエンジンが、そのうちどこかの回転域でウワーン……と調和する。そのポイントをどこに決めるか、みたいなことを我々走り手は積み重ねていったわけです。
鈴木:私は、言われるままハイハイとベンチのデータを頭に浮かべてセッティングし直していただけですけど、整備手順が大変で、カウルを外してエアクリーナーを外して、さあキャブレターをバラしてってやってると、1回30分コース(笑)。
福沢:そのうち、以前の症状がどうだったか忘れちゃうんですよ(笑)。
高田:機構の上では、不思議歯車を使ったこともRZVの特徴かな。
橋本:あったね、不思議歯車!
高田:2軸クランクの構造上、どうしてもバックラッシュ(ギアの遊び)の変動が大きいので、かなりメカノイズが出るんです。そのためドライブ側に、不思議歯車という、歯数が1枚違うギアを2枚重ねしたものを使ってバックラッシュを吸収させた。
鈴木:もうひとつ、このエンジンは排気ポートの下まで水がまわるよう、シリンダー全体に冷却水ジャケットを伸ばしてあるんです。おかげで、限界の焼き付きテストをしてもまったく平気でした。
高田:そのためボディシリンダーの端面に余計な穴(冷却水ジャケット)が空いてるもんだから、シリンダーを塗装する時はひとつひとつゴムで穴を塞いでもらってた。不思議歯車や吸気系もそうだけど、RZVは組むのに相当手間がかかるモデルだったんですよ。今、私は製造部門で品質管理の仕事をしていますが、当時RZVに携わっていた方と話をすると、「なんだおまえが図面を引いてたのか!」って怒られたりする(笑)。
2ストロークフラッグシップを担うプライド
橋本:製造部門に苦労をかけたのは、アルミフレームもそうだった。
福沢:開発はずっとスチールで進めていて、最後に国内向けのアルミフレームを作ったんですよね。
橋本:アルミの量産フレームはこれが初めてで、溶接も何もまったくノウハウがなかったから工場は大変だった。それでもヨーロッパの半年遅れで市場導入できたのは、製造部門のすごい努力があったからこそ。
鈴木:だけど、今考えれば、どうして国内だけアルミだったのかな(笑)。
橋本:国内仕様は、エンジンの馬力規制があるから車体をできるだけ軽くしたかった。それと、本物(OW61)に近い質感が欲しかったことも大きな理由だね。
福沢:アルミの開発は、基本的にスチールフレームの外形を踏襲しつつ、国内向けエンジンに合わせて剛性バランスや各部のセッティングを詰めていったんですが、細部の作り込みは凝ってましたね。バンク角を稼ぐためにダウンチューブなどが面取りしてあって、四角じゃなく五角形断面パイプだった。
高田:乗り比べると、やはりアルミとスチールはかなり違う?
福沢:フィーリングは全然違いましたよ。アルミフレームにフルパワーエンジンを載せても性能にまったく不足はないけれど、開発が先行したスチールの方が車体としてはまとめやすかった。
橋本:タイヤもRZV専用品だったよね。
福沢:最高速度230km/hなんてモデルはほかにないし、パワーウエイトレシオが2.0というのは当時のレーサーに近いから、フロントの荷重が足りないと簡単にウイリーしてしまう。だけど、単純に前を重くすると切り返しまで重くなるので、操縦性の軽いフロント16インチホイールを使ったわけです。ところが、小径ホイールは路面衝撃を受けると跳ねやすいので、それを吸収できる性能と速度域に見合う耐久性を持つタイヤでなければならない。それで、タイヤメーカーさんも一緒に頑張ってくれた。
橋本:そのくらい、担当者はみんなプライドを持ってたんだよね。
高田:うん、それは確かです。
鈴木:何といっても"2ストロークのヤマハ"ですから、そのフラッグシップとなればよけい気持ちが入るし、モチベーションも高かった。今となっては一生の誇りですよ。
※このページのプロフィール、および記事内容は、2004年10月の取材によるものです。