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やまももの木は知っている ヤマハ発動機創立時代のうらばなし

ヤマハ発動機の技術ストーリーをご紹介します。

7幻のプロペラ

幻のプロペラ ぺ・33

これはキ67の機体に装着される試作名称はぺ・33といわれるものである。このプロペラは、佐貫亦男氏を中心として日本楽器東京製作所で設計が進められ、現在の根本常務もこの設計を担当されていた。
この構造は、原動機の油圧モーター関係を前述のユンカース式として、減速の歯車室以下本体及び翼の根元まで、ラチエの方式をとり入れたものである。簡単にいうとラチエ方式の電機モーター部分を、ユンカースの油圧モーターに置換えた方法で、両者のよいところを組み合せたものともいえる。
ラチエ方式を採用することにより、製造方式も大きく変ることになって、生産技術者は難問題と取り組まなくてはならなくなった。歯車についての勉強、ウォーム、ウォーム歯車、5ミリのボール500個が翼の根もとに入っているスパイラル式の軸受となっている内筒、外筒といった部品の加工など、未知の世界にとびこまざるを得なくなった。

ぺ・33プロペラ構造概略図

軍の斡旋により、日本楽器から大部隊が平塚にある日本国際航空の工場へ見学と実習に出張した。私もメンバーの一員として参加させてもらい、工程計画、治工具の計画を担当してノウハウの吸収につとめた。よその工場へ入って、スケッチなどは気のひけるものである。しかしその点チームワークよく吸収し、後の業務に役立った。
前述の内筒及び外筒の加工方法は、精度の点で大変難しく、これと取り組まさせてもらったことは、後日オートバイを始め、金属加工をする際の考え方に大いに参考となったと思っている。

材質は窒化鋼・鍛造して焼鈍し、荒削りして焼準し、ほとんど完成品に近い状態にしてスタビライズという熱処理して仕上げ、最後に窒化してからのち薄い表面硬化層を残すように研磨仕上げする。それが鋼球をはさんだねじ形状の軸承ときているから大変である。
窒化鋼の鍛造品を調達するため、日立の安来工場へ空襲を避けながら数回も出張、最後の仕上げをしてもらうために、リンドナーのねじ研磨盤のある大阪の造兵廠へも日参したりして、試作品をまとめたのは今となればよい思い出である。
終戦直前、本田宗一郎さんが考案された外筒のねじ面仕上げのラップ盤も、発想がユニークで期待されたが、これまた終戦で実現することはなかった。本田さんは当時浜松市でピストンリングの製造をする会社を経営されていたが、川上嘉市社長の要請により、専用機械の設計を援助していただいたものであって、この機械以外にプロペラ翼のモデリングマシンを設計されたが、この機械は完成間近で戦災により焼失してしまった。

8天災と戦火

昭和20年5月19日の空襲後の浜松市街

そのころの日本楽器の技術陣が総力をあげて取り組んだぺ・33プロペラの準備が進んでいく一方、軍需会社法により軍需工場に指定された日本楽器は、民間兵器廠として活躍を期待されたにも拘らず、相つぐ天災、空襲により大打撃を受けることになった。
昭和19年12月7日、東南海地震、昭和20年5月19日空襲により天竜工場の木製プロペラ工場が全焼、本社の八幡工場も大半焼失、6月10日本社工場構内に7個の250キロ爆弾が投下され、木造工場のほとんどが全焼し大打撃を受けた。
このとき私は、愛知県弥富市で軍需省主催の航空機生産増強会議が開催され現在の神谷監査役をはじめ、会社の幹部の方方に随行して出席していたが途中、会社が空襲を受けたという知らせを受け、急きょ帰ろうとしたが汽車は不通。時間をかけて浜松にたどりついてみると、余りの惨状ぶりに唯ぼう然とする有様であった。
昨日まで執務していた自分たちの職場が一変して焦土と化しているところに立ち、松山警備課長がお亡くなりになり、その他多くの死傷者が出たことを知ったとき、余りにも冷酷な現実の前に、唯戸惑うばかりであった。次いで6月18日夜、浜松市は焼夷爆弾による大空襲により、ほとんどが焼野原、廃墟と化した。従って楠工場といわれた本社工場の生産能力はまったく失われたというまでに立ち至っていた。

9佐久良工場

佐久良工場配置図(昭和20年)

昭和19年より米空軍の本土空襲が激化するにつれ、本社工場が危険にさらされたので、政府から疎開を命ぜられ磐田郡光明村船明地区へ工場を移すことになった。この土地は現在の天竜市に属し、最近完成した船明ダムのある地域でもある。2月中旬から着手したが軍隊、学徒動員、地元の方方の協力を得て突貫作業をつづけ略完成したのが5月上旬である。
ここへ本社工場のプロペラの機械加工部門を最初に移して、5月下旬には一部生産が開始された。
疎開工場の概要は、田畠のある船明盆地をとりかこむ山々の谷間の杉木立の中に、三間位の幅に奥行を五間とか十間とか長屋のような工場を建てたのである。

立木はできる限り伐採せず、上空から見えないように配慮された。屋根は板を張った上に杉皮葺であり、窓はガラスなどは使わず、押し開きの板戸のままである。機械の据付にはコンクリートで固めるようなこともほとんどなく、木杭を打ち込んでその上に固定していたものが多かった。トンネルも鉄道用として計画したが、未使用のものを一ケ所使い、建屋群を1の谷から13の谷までの呼称で通した。
以上の疎開工場は第一次建設といわれ、第二次建設はプロペラの翼の仕上関係の職場及び鍛造関係となっていた。たまたま私も第一次建設には本社残留組であったが、前述の6月10日の空襲後は第二次建設班に編入、6月12日から疎開工場に移ることになった。
第二次建設班の事務所は二俣の町の中にある乾繭場を借りて、7月13日より正式に開設、船明以外に適当な地所を探し、疎開工場の割りつけを行った。翼の仕上工場は大渓という杉木立のある沢にしたり、鍛造工場は神田という所へ計画したりして、場所をきめれば、その翌日から杭打を実施すると共に、軍関係者が地主と接衝して進めていくといった調子であった。
相つぐ艦載機の空襲で、電車などの交通機関も不通となること度度。従って人員の確保もままならず、随分頭を痛めたものである。そうした中で、電車が不通になっても笠井から通っているある青年は、10㎞以上の道を歩いてかけつけてくれて頭のさがる思いだった。
食糧はほとんど芋粥かすいとん程度、それに会社へ出勤すると、配給してくれる加給品と称せられるお菓子の代用品は、中から麦わらの粉が出てくるような始末で、お世辞にもうまいとはいえなかった。ただ満腹感が得れればそれで幸せであった。
物資の欠乏も甚しく、こうした悪い環境の中でも、ただひたすら神州不滅を信じ、鉄かぶと、防空頭布を背負い、巻脚絆を巻いてプロペラ生産のために奔走する人たちの神々しいとも云える姿が、佐久良工場建設の中に見出すことができた。
7月29日の夜は日本楽器の本社工場、楠工場を中心にして艦砲射撃の直撃を受けたが、その機械はほとんど佐久良工場へ搬出されていた後であった。この夜は私も二俣の建設班事務所で宿直していたが、最初艦載機が飛んできて照明弾を落して場所を知らせると、艇砲射撃が始まり、すさまじい火炎の柱と音響には20㎞はなれた二俣でも身のちじむ思いで歯をくいしばって見ていた。
佐久良工場へ疎開した工作機械は約800台、運搬は日本通運が大動員され、トラックは二俣県道を夜を日についでのピストン輸送し、大型機械は西鹿島の駅、または二俣駅に鉄道輸送し、それからトラック輸送という手段をとった。

10終戦

艦砲射撃の翌日、本社の川上嘉市社長から相佐第二次建設班長に長文の書簡が届けられた。
内容は艦砲射撃がいかにすざましいものであったか。ここまできた以上本社では機能を発揮することはできない。一日一刻も早く第二次建設を完了すること……というようなことであったが、事態が切迫していること、対応策の緊急を要することが脈々と訴えられていたように記憶している。
8月13日には遂に楠工場から佐久良工場へ本社が移転した。
二俣の町の中にある建設班事務所の前に、道路に向ってラジオが一台あって、戦況ニュースや空襲及び警戒警報が報ぜられていたが、8月15日の昼前、このラジオの前に集合させられた。何やら重大発表があるといううわさでもちっきり不安な気持が一杯であった。
12時よりの放送で、我々ははじめて天皇陛下のお声を聞いたけれども、雑音がひどくて意味がわからず、いわゆる玉音放送だけではほとんど終戦を理解したものは少なかったように思う。時間がたつにつれ、日本が降伏し、戦争が終ったとわかったときの心境は、今思い出しても何と表現してよいかわからない位であった。
これまで張りつめて戦い、プロペラ生産のため、お互いに私生活も犠牲にしてがんばってきたのに、敗けたという悔しさ悲しさ、一方これであの悲惨な空襲の恐怖からのがれることができるといったような安らぎの気持、さてこれからどうなるのかといった不安が混然として、虚脱状態となってしまった。
終戦は日本中に大混乱を起こさせ、人間のみにくさを暴露することになったが、佐久良工場の周辺もご多聞に洩れず、いろいろな風聞も流れた。しかし終戦の日から数日後、船明の上臈塚というところにあった事務所では、川上嘉市社長から平和産業へ復帰し再建するという力強い方針が出された。
我々一般社員もこのことを聞き、暗夜の中にかすかな光明を見出したような気になって嬉しかった。それは、今まで空襲に対する灯火管制下のうす暗い毎日から一変して、電球にかぶせてた黒いカバーがとり払われ、明るい電灯のもとで暮せるようになったことと相通ずるものがあった。
一時混乱した佐久良工場も、占領軍総司令部(GHQ)の命により封鎖されると共に、管理保全を義務づけられ、多くの人がその任に当ったのである。
一方プロペラ加工用の専用機、即ちプロペラ翼を削ったモデリングマシンや、ナトコのボール盤と云ったような機械は、プロペラ、落下タンク共々完全破壊された。一方ラポイントのブローチ盤といった大型の機械を始めとして、残された汎用機械は戦犯扱いから免れ、静まりかえった杉木立の疎開工場の中で、何年間を静かに眠りつづけることになった。
この機械が後にヤマハ発動機誕生のきっかけをつくることになり、また大きな戦力になったことはいうまでもない。

(註)
参考文献:「日本楽器製造株式会社 社史」、朝雲新聞社刊「陸軍航空兵器の開発・生産・補給」
プロペラの図面は竹内十詩生氏の協力を得たものであります。
「ぺ・33」の写真は根本常務より提供していただきました。

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