飽くなき勝利の追求とGP500活性化
2009年 企画展 Vol. 2
頂点をめざして YAMAHA Motorcycle Racing History - since 1955・後期
1980年代後半、世界GP500クラスではエディ・ローソンやワイン・ガードナーに加え、ウェイン・レイニー、ケビン・シュワンツ、マイケル・ドゥーハンなどニューフェイスが続々と台頭。各メーカーのマシン開発競争もますます拍車が掛かり、つねに4~5台がトップグループを形成するスリリングなレース展開で観衆を魅了した。
その一方、下位チームはレンタルできるマシンが数少なく高価になり、戦力差も拡大するばかり。これまで1大会30台以上あった参加台数は、'90年、ヨーロッパラウンドでさえ20台を割り込む事態となった。そこでヤマハ発動機は、'92年に向けて、'90年型YZR500(0WC1)のレンタルやエンジンの販売を開始。その開幕戦・日本GPでは、YZR500とYZRエンジン搭載車23台をスターティンググリッドに並べ、GP500活性化にかける
意気込みを示した。
だが、GPマシンの大量供給と勝利の両立は、相当な困難を伴う。シーズン前半、不本意なレースが続き、'90年・'91年に続いて3連覇を狙うレイニーがライバルに大きくリードを許すと、大量供給の負担がチャンピオンチームに影響したのではないかと懸念する声さえ出はじめた。それでもチームとレイニーはあきらめない。後半、わずかなチャンスを見いだし、並みいるライバルたちをしのいで逆転。みごと3年連続チャンピオンに輝いた。
そして翌年、レイニーは達成目前の事故で4連覇を逃したが、YZR系マシンに乗るライダー29名が選手権ポイントを獲得。1大会の参加台数も平均33台まで増加していた。