DOHC5バルブエンジンと4ストロークレーサー
2009年 企画展 Vol. 2
頂点をめざして YAMAHA Motorcycle Racing History - since 1955・後期
1970年発売のXS-1以来、4ストロークモデルの開発に力を注ぎ始めたヤマハ発動機は、技術修得とアピールのために耐久レース参戦を計画。1000cc・DOHC・スクエア4、フューエルインジェクション装備の90度V4、7バルブDOHC・V4などさまざまなエンジンの試作・研究を重ねていた。
その一方、'64年から鈴鹿サーキットで開催されていた耐久レースが、'78年に国際格式の8時間耐久レース(鈴鹿8耐)としてリニューアル。1000cc市販車改造マシンどうしの迫力あるバトルで大きな注目を集め、漫画にも登場するなど、折からのバイクブームと呼応して急速に人気を高めていった。
そこでヤマハ発動機は、4ストロークレーサープロジェクトを方向転換。全日本国際A級F3(400cc)・F1(750cc)の新設と鈴鹿8耐の750cc移行に備え、ベースマシンとなる新しい市販モデルの開発を進めながら、'84年、ひと足早くXJ400ZとXJ750Eの改造マシン(FZR400、XJ750R)で初参戦。江崎正が初代F3チャンピオンを獲得した。そして同年秋、これまでの研究から生まれたDOHC5バルブ・4気筒エンジン搭載の市販スーパースポーツ、FZ750を発表。全日本F1や鈴鹿8耐、ボルドール24時間耐久、デイトナ200マイルなど幅広いレースに対応し、ファクトリーチームやプライベーターの活躍を支えた。
1980年、世界選手権に格上げされた鈴鹿8時間耐久レース(鈴鹿8耐)は決勝入場者数が10万人を超え、ヤマハ発動機が初参戦した'84年には、同14万人を突破する日本最大のレースイベントとなった。
そうしたなかヤマハチームは、'85年、ついにFZ750ベースの新ファクトリーマシンFZR750(0W74)を投入。平忠彦/ケニー・ロバーツ組が、終了30分前にマシントラブルでリタイヤするまでトップを独走する圧倒的なパフォーマンスを見せた。翌年には、プライベートチームのFZ750(マイケル・ドーソン/ケビン・マギー組)が2位入賞。そして'87年、ついにファクトリーマシンYZF750を駆るマーチン・ウィマー/ケビン・マギー組が初優勝を果たし、カル・レイボーン/ジョン・コシンスキー組も3位に入った。
さらに'88年、ウェイン・レイニー/ケビン・マギーのGPライダーペアで2勝目を獲得すると、史上最多となる決勝入場者16万人を記録した'90年には、GPチャンピオンのエディ・ローソンが参戦。平とともに205周の新記録で優勝を飾り、鈴鹿8耐にひとつの区切りをつけた。