初の市販ロードレーサーTD-1
2009年 企画展 Vol. 1
頂点をめざして YAMAHA Motorcycle Racing History - since 1955・前期
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1957年の第2回浅間火山レースに全力を傾けたメーカー各社は、経済的な反動から、翌年の"浅間"開催を回避した。そのため、一般レースファンを会員とする全日本モーターサイクルクラブ連盟(MCFAJ)が組織され、同年8月、第1回全日本モーターサイクルクラブマンレースが行われた。最後の"浅間"第3回大会は、第2回クラブマンレースと併催で'59年に実施されたが、ヤマハ発動機はファクトリー参戦する代わりに、レース仕様を施した50台近くのYDS-1をクラブマンチームに供給。野口種晴が排気量アップした260ccのYES-1で耐久ジュニアクラス(350cc)優勝を飾るなど、クラブマンレースの盛り上げに貢献した。この大会に出場したライダー約320名のうち、270名あまりがクラブマンだったという。
そこでヤマハ発動機は、YDS-1をベースとする本格的な市販レーサーTD-1の開発に着手。'62年初頭から海外向けの販売を開始し、7月には第5回クラブマンレースで国内デビューウィン(三橋実)も果たした。その後、10月の全日本自動車ショウで市販車として正式発表されたTD-1は、11月、鈴鹿サーキットの完成記念を兼ねて開催された第1回全日本ロードレース選手権に登場。再び三橋が250ccクラスを制し、350ccクラスでも255ccに排気量を上げたTD-1改の片山義美が優勝を飾った。
あらかじめレーシングキットを組み込んだモデルはTD-1Aと呼ばれ、アメリカやオーストラリア、ヨーロッパ、東南アジアのレースで大活躍した。
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