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すべてはここから始まった。富士・浅間の時代

2009年 企画展 Vol. 1

2009企画展 Vol.1
頂点をめざして YAMAHA Motorcycle Racing History - since 1955・前期

すべてはここから始まった(1) 富士登山オートレース
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1953年に始まった富士登山オートレースは、富士宮市・浅間神社前から富士山表口2合目まで24.2km(標高差1,450m)の登山道をどれだけ短い時間で上れるか、というタイムトライアル。当初は富士宮市観光協会が主催する運動会的なものだったが、翌年の第2回大会からメーカー各社がこぞって参加する一大イベントに発展。'55年の第3回大会は二輪専門誌出版社の主催で125cc、250ccの2クラスが開催された。
この第3回大会に出場するため、ヤマハ発動機は東京の販売店を通じて10名のライダーを集め、富士宮市内で合宿。スタート地点と1合目、ゴールの3カ所に無線要員を置き、タイム計測しながら練習を積んだ。車両は無改造というルールのため、細部に手を尽くしたが、マフラーの形状ひとつでエンジン性能が変わることをこの時知ったという。
そして7月10日の大会当日、16社49台が出走した125ccクラスで、YA-1の岡田輝男が優勝。さらに6名が9位以内に入賞した。また翌年の第4回は、YA-1に加え、175ccのYC-1を250ccクラスに投入。2クラスそろって優勝、上位独占を果たし、東京や大阪でその祝賀パレードを行った。


すべてはここから始まった(2) 第1回浅間高原・第2回浅間火山レース
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第1回浅間高原レース

1955年11月に開催された第1回浅間高原レースは、日本小型自動車工業会などがマン島TTを目標に企画したもので、第1回全日本オートバイ耐久ロードレースが正式名称。高原道路を閉鎖して1周19.2kmのコースを作り、125cc、250cc、350cc、500ccの4クラスで規定周回数のタイムを競った。
業界主催の大会とあって各社の意気込みは激しく、事前準備の段階から戦争さながらの情報収集活動や駆け引きが展開されたという。ヤマハ発動機も7月の第3回富士登山レースが終わるとすぐ、密かにコース沿いの施設を借り切って合宿。徹底的な練習を行ってレースに臨み、日吉昇が125ccクラス優勝を果たすなど、YA-1は4位までを独占した。
第2回大会は、浅間高原自動車高速試験場の建設を待って'57年10月に開催され、名称も浅間"火山"レースと改められた。新しいコースは、最高速180km/hも可能な、1周9.35kmの平坦な未舗装路。そこでヤマハ発動機は、初めてレース専用設計のファクトリーマシンを投入する。
エンジンは、2ストローク・空冷・単気筒の125ccでボア×ストロークが異なるYA-AとYA-Bを用意。さらにそれを2気筒化した250ccのYD-AとYD-Bを作り、各ライダーの体格に合わせた専用ダブルクレードルフレームに搭載した。そしてレース当日、ドルフィンカウルまで装備したYA、YDレーサーは予想どおりの快走を見せ、優勝した大石秀夫(125cc)や益子治(250cc)など5名が表彰台に上った。

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第2回浅間火山レース
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