YDS-1 開発者インタビュー
展示コレクションの関連情報
正月休み返上の単独・箱根走行テスト
PROFILE
長谷川 武彦氏
(はせがわ・たけひこ)
YDS-1のエンジン設計担当
私がヤマハに入社して、最初に命ぜられた仕事がYDS-1のエンジン設計でした。もっと言うと、YDS-1の後しばらく、レースの世界やトヨタ2000GTなど自動車関連の仕事に携わっていましたので、技術者として市販モーターサイクルの開発に主体的にかかわったのはこのモデルが最初で最後。だからこそYDS-1は、私にとって非常に思い入れの深いモデルなのです。
当時のことを思い返しますと、まっ先に頭に浮かぶのは、雨の箱根の風景です。あれは昭和34年(1958年)の正月休みのことでした。年末までにどうにか仕上げた試作車にまたがって、冷たい雨が降るなか、一人で箱根まで実走テストに出かけたのです。
私が入社したのが前年の9月ですから、それからわずか3カ月間で試作車の完成まで漕ぎつけたことになります。あまりにも時間がないなかでの仕事でしたから、正直に言って「どうだ!」という自信があったわけでもありません。一応カタチにしたとは言え、年が明けてからのテストで「できました。はい、壊れました」じゃエンジニアとしてあまりにも恥ずかしいので、本格的なテストが始まる前にこっそりと自分だけでテストしておこうと思ったわけです。
それにしてもあの日は寒かった。冷たいみぞれ混じりの雨に打たれて、足の指も手の指もあっという間に感覚がなくなってしまったことを覚えています。
YDS-1の原型は、第2回浅間火山レースでデビューし、その後さらなるチューンナップを受けてカタリナGPでも活躍したYDレーサーです。それをベースに市販車を作ることになって、設計課の課長だった根本文夫さんと、「レーサーは27馬力だけど、市販車も20馬力は欲しいなあ」とか「5段変速に挑戦してみよう」とか、二人で相談しながら大雑把なイメージを作り上げました。当時『光』という名前の庶民的なタバコが売られていたのですが、そのパッケージの裏に目標とするスペックなどをびっしり書き込みながら議論した記憶があります。今でいうコンセプトワークにあたる作業ですが、それをたった二人で、しかもタバコのパッケージをメモ帳代わりに使っていたのですから、のどかな時代だったのですね(笑)。その時に検討した5段変速は実際にYDS-1に組み込まれ、後にその構造に対して静岡県優秀発明考案賞という賞をいただきました。
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当時の設計というと、きっちりした方法論が確立されていたわけではないので、言うなれば技術者の経験と勘で図面を引いていくイメージです。いまのようにコンピュータなんてありませんし、電卓さえない時代でしたから、手動の計算機を回しながら強度計算などをするわけです。いい加減なように聞こえるかもしれませんが、「ピッチはどれくらい?」「ベアリングの大きさは?」など、すべてが技術者の勘でした。
とはいえ、国内外のモデルを問わず、20代前半からいろいろなモーターサイクルのエンジンをバラしては組み立てるという作業を繰り返していましたので、私にも「何をどうすれば、どうなるか」という勘が備わっていたんだろうと自負しています(笑)。
YDS-1は、開発にとても苦労したモデルで、発売後もいろいろトラブルに見舞われましたが、YDS-1を購入してくださった方々は、「エスワンは壊れるけど、速いからいいんだよ。これはこういうバイクなんだ」という心意気で乗ってくださっていたように思います。もちろんそれだけでなく、私の後を引き継いでくれたエンジニアたちもよく頑張り、YDSシリーズを素晴らしい製品に育ててくれました。だからこそ、ヤマハスポーツバイクの礎を築くことができたのでしょう。心から感謝したいと思います。