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YDS-1 開発ストーリー

展示コレクションの関連情報

開発ストーリー

浅間YDレーサーをルーツとするピュアスポーツ

 「ヤマハがスポーツ車を出すからには、必ず国際的なスポーツ車でなくてはならない。それも市販レーサーというよりは、ツーリング用のスポーツ車である。一方で、ツーリング車ではあるが、キットパーツを組み込むことでスクランブラーにも、またスピードレーサーにも改造できるようにしたい」
 ヤマハ発動機が二輪販売店向けに発行していたヤマハニュースの創刊号には、YDS-1の開発意図についてこのような記述が残されている。短い文章であるが、開発スタッフの口からこぼれたこの言葉のなかに、YDS-1の狙いが集約されている。
 斬新なデザインとスポーツ性で根強い支持を集めたYD-1(1957年発売)に対し、その後継モデルとして発売されたYD-2(1959年発売)は、どちらかと言えば実用ユースを重視したモデルだった。まだ二輪車の主な用途が移動や運搬の道具だった時代である。YD-1の血統の上に実用ユースにおける信頼性を高めたYD-2は、当然のように市場で高い人気を集めていた。ニューモデルとなるYDS-1が、企画の段階から「徹底したスポーツ性の追及」と割り切ることができたのは、キャラクターとして対極にあるYD-2の存在が大きかったと言えるだろう。その存在のおかげでヤマハ発動機は、YDS-1に惜しみなくスポーツスピリッツを注ぎ込むことが可能になった。
 YDS-1のルーツを辿れば、昭和32年(1957年)の第2回浅間火山レースまで遡る。このレースで1~3位を独占した最初のファクトリーマシン、YDレーサーこそYDS-1の原型である。ダブルクレードルという当時としてはもっとも進歩的なフレーム型式に高性能エンジンを搭載したYDレーサーは、ドルフィンタイプと呼ばれる独特の形状のカウルをまとって浅間の観衆を釘づけにした。また続く昭和33年(1958年)には、YDレーサーにアップマフラーなどを装備して不整地仕様にモディファイしたマシンで米・カタリナGPに参戦し、6位入賞を果たした。ライダーは伊藤史朗(いとうふみお)選手。これがヤマハ発動機の名を初めて海外に知らしめた、記念すべきレースである。
 フラットダートの浅間、タフな山岳コースのカタリナと、それぞれのコースコンディションに合わせて仕様変更が可能だったYDレーサーは、「スクランブラーにも、またスピードレーサーにも改造できるようにしたい」というYDS-1のベース車としてはこれ以上ない素材だった。

クラブマンレースを経て1959年9月ついに発売

 ヤマハ発動機が250S(YDS-1の導入初期における商品名)の発売を発表したのは、昭和34年(1959年)6月のこと。実際の販売開始は同年9月だから、スケジュールを3カ月も前倒しして発表したことになる。これは、同年8月に行われる第2回全日本クラブマンレースに出場するための対策だった。クラブマンレースに出場するためには、40台以上市販された車でなくてはならないというレギュレーションがあり、発表後、間髪置かず次々と正式発売前の250Sが全国のクラブマンのもとへ送り届けられた。
 このレースでシリンダーやピストン、キャブレター等に若干の変更を加えた程度のほぼノーマルに近い250Sが3位入賞を果し、発売を前に多くのスポーツバイクファンの期待を膨らませたのだった。
 そして9月、満を持して発売された250Sは、たちまち爆発的な人気を呼んだ。ゴールドとホワイトに塗り分けたカラーリングの鮮やかさ、スポーティなシルエット、エアクリーナーやバッテリーのカバーさえない荒々しくシンプルな機能美。また丸型のメーターパネルには、YDレーサー直系の本格的なスポーツ車であることを印象づけるタコメーターと、「ツーリング用スポーツモデル」というコンセプトを反映する国産車初のゼロ戻し可能なトリップメーターが標準装備され、マニアたちの心を強く惹きつけた。
 また、本格的なモータースポーツを志す人にはロードレース用やスクランブラー用のキットパーツを用意し、その数は合計64点にものぼった。
 デビュー翌年、1960年の第3回全日本クラブマンレースでは、市販キットパーツを組み込んだ数多くの250Sがスターティンググリッドに登場。そのなかのひとり、益子治選手が見事に優勝を飾ると、250Sの速さは以前にも勝る勢いで全国のファンの耳に伝わっていった。

ヤマハ2ストロークスポーツの魂はやがてRZ、TZRへ

 その後まもなく、出荷台数が3000台を越えた時点で、250Sの正式名称はYDS-1と改められた。
 すでにYDS-1の評価は揺るぎないものだったが、もちろん弱点もあった。ピーキーなエンジン特性のため、スタート時はクラッチ操作に細心の注意を払わなければならず、低回転域ではライダーに微妙なスロットルコントロールを要求した。
 それでもYDS-1がオーナーに愛され続けたのは、素直なハンドリングと、なんと言っても高回転域で発揮する痛快なパワーがあったからだ。マシンガンの弾倉のようなエアクリーナーが発する独特な吸気音やカシャカシャと鳴るチェーンノイズさえ、本格的なスポーツバイクの「味」として受け入れられた。この個性的なクセは、幾度かのマイナーチェンジを繰り返し、ギアレシオやスプロケットに変更が加えられても変わらなかった。
 こうして、YDS-1が築いた「スポーツ」「2ストローク」の礎は、やがてRZ250、さらにはTZR250へと受け継がれる血統となり、ヤマハモーターサイクルのシンボルとして多くのファンから支持を受けることになる。

※このページの記事は、2003年6月に作成した内容を元に再構成したものです。

開発者インタビュー

PROFILE
長谷川 武彦氏 (はせがわ・たけひこ)
YDS-1のエンジン設計担当

今でもみぞれ混じりの冷たい雨を思い出す
正月休み返上の単独・箱根走行テスト

 私がヤマハに入社して、最初に命ぜられた仕事がYDS-1のエンジン設計でした。もっと言うと、YDS-1の後しばらく、レースの世界やトヨタ2000GTなど自動車関連の仕事に携わっていましたので、技術者として市販モーターサイクルの開発に主体的にかかわったのはこのモデルが最初で最後。だからこそYDS-1は、私にとって非常に思い入れの深いモデルなのです。
 当時のことを思い返しますと、まっ先に頭に浮かぶのは、雨の箱根の風景です。あれは昭和34年(1958年)の正月休みのことでした。年末までにどうにか仕上げた試作車にまたがって、冷たい雨が降るなか、一人で箱根まで実走テストに出かけたのです。
 私が入社したのが前年の9月ですから、それからわずか3カ月間で試作車の完成まで漕ぎつけたことになります。あまりにも時間がないなかでの仕事でしたから、正直に言って「どうだ!」という自信があったわけでもありません。一応カタチにしたとは言え、年が明けてからのテストで「できました。はい、壊れました」じゃエンジニアとしてあまりにも恥ずかしいので、本格的なテストが始まる前にこっそりと自分だけでテストしておこうと思ったわけです。
 それにしてもあの日は寒かった。冷たいみぞれ混じりの雨に打たれて、足の指も手の指もあっという間に感覚がなくなってしまったことを覚えています。
 YDS-1の原型は、第2回浅間火山レースでデビューし、その後さらなるチューンナップを受けてカタリナGPでも活躍したYDレーサーです。それをベースに市販車を作ることになって、設計課の課長だった根本文夫さんと、「レーサーは27馬力だけど、市販車も20馬力は欲しいなあ」とか「5段変速に挑戦してみよう」とか、二人で相談しながら大雑把なイメージを作り上げました。当時『光』という名前の庶民的なタバコが売られていたのですが、そのパッケージの裏に目標とするスペックなどをびっしり書き込みながら議論した記憶があります。今でいうコンセプトワークにあたる作業ですが、それをたった二人で、しかもタバコのパッケージをメモ帳代わりに使っていたのですから、のどかな時代だったのですね(笑)。その時に検討した5段変速は実際にYDS-1に組み込まれ、後にその構造に対して静岡県優秀発明考案賞という賞をいただきました。

 当時の設計というと、きっちりした方法論が確立されていたわけではないので、言うなれば技術者の経験と勘で図面を引いていくイメージです。いまのようにコンピュータなんてありませんし、電卓さえない時代でしたから、手動の計算機を回しながら強度計算などをするわけです。いい加減なように聞こえるかもしれませんが、「ピッチはどれくらい?」「ベアリングの大きさは?」など、すべてが技術者の勘でした。
 とはいえ、国内外のモデルを問わず、20代前半からいろいろなモーターサイクルのエンジンをバラしては組み立てるという作業を繰り返していましたので、私にも「何をどうすれば、どうなるか」という勘が備わっていたんだろうと自負しています(笑)。
 YDS-1は、開発にとても苦労したモデルで、発売後もいろいろトラブルに見舞われましたが、YDS-1を購入してくださった方々は、「エスワンは壊れるけど、速いからいいんだよ。これはこういうバイクなんだ」という心意気で乗ってくださっていたように思います。もちろんそれだけでなく、私の後を引き継いでくれたエンジニアたちもよく頑張り、YDSシリーズを素晴らしい製品に育ててくれました。だからこそ、ヤマハスポーツバイクの礎を築くことができたのでしょう。心から感謝したいと思います。


※このページのプロフィール、および記事内容は、2003年6月の取材によるものです。

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