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YD-1 開発ストーリー

展示コレクションの関連情報

開発ストーリー

若き技術者たちが生んだヤマハオリジナル

 二輪車業界において最後発メーカーとして出発したヤマハ発動機は、最初の製品YA-1(125cc)、その後YC-1(175cc)の成功によって次のステージに進もうとしていた。250cc、YD-1の開発である。
 YA-1が、ドイツの代表的なモーターサイクルメーカーDKW社のRT125を研究し、製品開発の基礎を学んで作られたことはよく知られている。YA-1だけではない。日本の二輪車メーカーの多くが世界のトップランナーであるドイツの先行モデルを範に取り、追い付き追い越せる製品を作ろうと励んだ時代だった。だがそれは、戦後復興のなかで果敢に進歩をめざす国内産業にとって、通過せざるを得ない宿命的な過程のひとつだったとも言える。
 新しい250ccモデルYD-1のプランニングにあたり、ヤマハ発動機はその目標をアドラー社(ドイツ)のMB250に設定した。2ストローク・2気筒エンジンを搭載するこのモデルは、完成度の高い傑作としてヨーロッパのライダーから高い評価を得ていたからだ。
 開発の行程も、従来どおり、MB250を採寸して設計図を書き起こし、外観上のポイントにオリジナルデザインを加味して進めることになっていた。しかし、YA-1とYC-1の成功によって、技術者たちの間には自信が芽生え、いつしか「自分たちの可能性を試したい」という欲求が膨らみ始めていた。また、「完全なオリジナル製品を作らなければ、ヤマハの、そして日本の二輪車製造技術に飛躍的な進歩は生まれない」という思いもあった。
 そして「物まねではない、胸を張ってヤマハが考えたと言えるオートバイを作りたい」という彼らの純粋な情熱は、やがて会社の方針を転換させ、YD-1の企画を一からやり直すという形で結実する。
 とはいえ、模倣から創造へ脱皮する新たなチャレンジは、まさに産みの苦しみを伴うものだった。ゼロから物を創り出す経験のなかったスタッフたちは、まず何をどのように進めるのか、仕事そのもののグランドデザインを描くという最初の一歩からスタートしなければならず、思いがけない多くの手間と時間を費やしたのだ。

国産250ccの流れに影響を与えたYD-1思想

 ヤマハ発動機がYD-1で表現しようとしたオリジナリティをひと言でまとめれば、「日本人のために作った250cc」ということになる。例えばドイツ車はドイツ人の体格に合せて作られたものであり、同様に日本人には日本人の身体に見合った車格が必要である。エンジンについても「荷物を積み、法定速度で走るのに十分なパワー」を想定し、それに見合う性能と耐久性を追求した。
 外観上、YD-1をもっとも強く印象づける存在感豊かな燃料タンクは、その形状から“文福茶釜”などと呼ばれた。だがそれは、初めから意図したものではなく、構造上の必然によって導かれたデザインだった。
 シート高や前後輪の位置、そしてハンドルやシートの形状など車体全体の基本設計が決まり、各部の詰めに入ろうとしたところ、技術者たちは予定した15リットルタンクを置くスペースの長さが足りないことに気づく。15リットルは当時250ccモデルの平均的なタンク容量で、ぜひ確保したい数字だったが、今さら着座位置を動かせば全体のバランスを損なってしまう。
 解決策はただひとつ。タンクの形状を変え、前後を詰めながら上下の高さと横幅で容量を稼ぐことだった。さらに、ダークブラウンというそれまでにない大胆なカラーを採用したことも、このタンクをいっそう目立たせる要因となった。 「国産モーターサイクルに初めてインダストリアルデザインを持ち込んだ」と評されたYD-1だが、こんな裏話もあったのだ。
 2ストローク2気筒エンジンは、アドラーMB250を参考に開発。ヤマハ発動機として初めてのチャレンジだったが、クラッチやダイナモなどに独自の工夫を加え、MB250よりコンパクトで振動が少なく、最高出力14.5馬力を発生する高性能エンジンに仕上げた。
 この当時、国産250ccクラスのモデルは一様に重量感を重視する傾向が強かったが、コンパクトな車体にスポーティなエンジンを搭載したYD-1は、それまでの流れを大きく変えることになる。

独創的なスタイリング、そしてスポーツマインド

 YD-1の生産1号車が完成したのは、1957年(昭和32年)2月11日。川上源一社長によってエンジン番号の刻印が行なわれ、川上社長をはじめとする3名は、できあがったばかりのYD-1にまたがって浜松から東京へ300kmツーリングに出発した。
 公式の記者発表は3月20日、通産省の機械試験所テストコースに二輪専門誌編集者などを集めて行なう手はずになっていたが、たまたま川上社長らのツーリングが自動車業界の新聞記者に見つかって、さっそく翌日の新聞紙上で発表されてしまったという。
 発売は5月20日だったが、すでに二輪専門誌の試乗レポートなどで「ユニークなデザイン」「軽快な取り回し」「心地よい加速とスピード」と高い評価を受けており、5月9日から19日まで東京・日比谷公園で開催された第4回全日本自動車ショウ(現在の東京モーターショー)でも、YD-1展示コーナーのまわりに黒山の人だかりができるほど大きな注目を集めた。
 それまで実用一辺倒の乗り物だった二輪車の既成概念を覆し、旅や走行を楽しむ道具という新しい価値観を提唱したYD-1は、戦後復興期を懸命に生き抜いてきた人たちにとって、忘れかけていた生活のゆとりや豊かさを思い出させる存在だったのかもしれない。
 実際、YD-1のリアフェンダーの内側には、大きな荷物を積むためのキャリアを装着できるよう補強材が仕込まれていたが、そのキャリアを装着して荷物を運ぶYD-1など、ほとんど見かけることはなかったという。

※このページの記事は、2003年4月に作成した内容を元に再構成したものです。

開発者インタビュー

PROFILE
安川 力氏 (やすかわ・ちから)
YD-1の車体設計担当

すべてをやり尽くした達成感と満足感、技術者として本当に幸せだったと思う

 YD-1の設計試作がスタートした1956年(昭和31年)当時、まだ日本のオートバイ産業は本当の意味で自立した状態ではありませんでした。ヨーロッパで高い評価を受けるモデルの実車を採寸して、それをもとに図面を起こし、タンクやフェンダーなど外観上のポイントとなる部分だけに手を加える程度の製品しか作っていなかったからです。
 YD-1も企画の段階では、アドラー社(独)のMB250をお手本としようということが概ね決まっていました。しかし、設計者にしてもデザイナーにしても、「自分たちの手によって、自分たちの考えた新しいオートバイを作りたい」という強い気持ちを抑えきれず、意を決して川上源一社長(当時)に「オリジナルのオートバイを作らせて欲しい」と直訴したのです。
 当時のオートバイは、エンジン出力のわりに車体が大きいモデルが多くて、使用実態も荷物運搬などの実用的な用件が大半を占めていました。ただ、オートバイの未来像、あるべき方向を考えると、「もっと軽快でパワフル、もっとスポーティであるべきだ」という意見に行き着いたわけです。
 川上社長が私たちの技術、それから可能性をどの程度信用してくれたのかわかりませんが、少なくとも情熱は汲み取ってくださったのでしょう。「だったらやってみろ」と許可をいただきました。それはもちろん、飛び上がるほど嬉しいことでしたが、逆に精神的なプレッシャーにもなりました。「技術者としての無理を聞いてもらった。だからこそ、いい加減な仕事はできないぞ」とね。プロジェクトそのものは、車体設計、エンジン設計、そしてデザインのスタッフを合わせて6名という小さな規模だったのですが、みんな一様に「責任のある仕事を任された」という気力が漲っていました。
 毎晩遅くまで働き、時には仕事場に寝泊りすることさえありましたが、当時のことを振り返って「苦労した」という印象はありません。初めてのことばかりで何をやるにも試行錯誤の連続でしたが、このような機会を若いうちに与えられたのは、技術者として本当に幸せだったと思います。
 デザインを担当したGKデザインの岩崎信治さんとは、本当に、寝ている時以外いつも顔を突き合わせていた印象があります。車体設計の立場、そしてデザイナーの立場から意見を出し合い、来る日も来る日も激論を交わしました。そして「本当のデザインとは、まず機能があり、その必然性から生まれたものでなくてはならない」という基本的な理解のもと、ヤマハのフルオリジナルYD-1の姿を具現化していったのです。
 完成した時の、すべてをやり尽くしたという達成感や満足感は格別なものでした。
 そして、デビューしたYD-1は、オートバイという乗り物が実用車からスポーツ車へ転換を図る大きな分岐点となり、たくさんの二輪雑誌の人たちから「ヤマハの持てる技術をすべて注ぎ込んだオリジナルの傑作車」と絶賛されたことも、我々にとって大変嬉しいできごとでした。


※このページのプロフィール、および記事内容は、2003年4月の取材によるものです。

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