XJ750E 開発ストーリー
展示コレクションの関連情報
開発ストーリー
1980年代ヤマハ4ストロークモデル――蓄積した技術の集大成
1981年5月1日に発売されたXJ750Eは、ひと足早くヨーロッパで市場導入されていたXJ650をベースにボアを2mm、ストロークを4mm拡大し、いっそうのポテンシャルアップをはかった日本向けモデルである。
この頃、日本のモーターサイクル市場では、ヤマハスポーツバイクの専門店「YSP(YAMAHA SPORTS
PLAZA)」の第1号店がオープンし、"TZレプリカ"と呼ばれたRZ250も爆発的な人気を獲得。やがて訪れる空前のスポーツバイクブームを予感させる、明るい活気に包まれていた。
その中でヤマハ発動機は、1970年発売のXS-1を皮切りに4ストロークモデルの開発にも力を注ぎ、さまざまな試行錯誤を重ねながら、着々と技術やノウハウを修得。XS-1で2気筒、XT500で単気筒、GX750で3気筒、さらに1970年代後半、XS1100によって4気筒エンジン搭載モデルの製品化を果たし、4ストローク技術でも他社と肩を並べる水準までたどり着いた。
「ミドルクラスのニューモデルが欲しい――」という要望がアメリカとヨーロッパから届いたのは、ちょうどそんな時期だった。
「これまで蓄積してきた技術を集大成させ、これが新しい時代、1980年代のヤマハ4ストロークだと胸を張って言えるモデルを作りたい」。そうした情熱が、4ストロークエンジンを専門に担当する第4技術部のなかから沸き起こり、やがて欧米の要請に応えた形でXJ650開発プロジェクトへと集約されていった。
めざすべき「1980年代のヤマハ4ストローク」とは何か。技術の革新、ヤマハ発動機としてのオリジナリティ、そうしたものをどのように表現するか。連日議論を重ねるなかで、導き出されたキーワードは「軽量・コンパクト・高性能」だった。それは単なるパワーアップを目的とした多気筒化や大排気量化といった潮流に対する、ヤマハ技術陣のアンチテーゼであったかもしれない。「人間は機械じゃない。必要にして十分なパワー、最適な車格など、人間がコントロールするのにちょうどいい性能のバランスがあるはずだ。そういう"人間のためのバイク"をつくろう」。こんな会話が口々に交わされた。
もちろん、それまでの製品に「軽量・コンパクト・高性能」という考え方がなかったわけではない。だが、XJ650シリーズの開発にあたって強く再確認されたことが、やがてヤマハモーターサイクルの基本的な開発思想として根付くきっかけとなった。
時代を超えてなお語り継がれる"ペケジェイ"
「軽量・コンパクト・高性能」――それを極限まで突き詰めるために、XJ650はエンジン/車体のそれぞれに単独の高い目標値が設定され、「100g増の改定案を出したら100g減の改定案を出せ」というような厳しい姿勢で開発が進められた。そして、さまざまなトライのなかから背面ジェネレーターや一体クランクのウエブに直接歯切りしたドライブ・ドリブンといった技術が採用され、「4気筒でありながら2気筒並みにコンパクト」「750ccの性能、550ccのサイズと重量」と評されたエンジンが誕生する。車体に対しても、重量という点で大きなマイナスとなるシャフトドライブをあえて採用し、フレームや外装部品にいっそうの軽量化を迫るという激しさだった。
そして1980年春、こうした努力が実を結び、アメリカ向けのクルーザーXJ650MAXIMとヨーロッパ向けのロードスポーツXJ650がそろって完成。発売と同時にそれぞれ大ヒットし、同年7月には、MAXIMがXJ650Specialという名称で国内導入された。
XJ750Eは、その成功を受け、日本市場向けに新開発したロードスポーツである。550ccなみにコンパクトなXJ650の車体をそのまま生かし、高性能な4気筒・DOHCエンジンは排気量を750ccまでアップ。さらに高出力と省燃費に貢献するY.I.C.S.(ヤマハ・インダクション・コントロール・システム)の採用により、最高出力70PS/9,000r/min、最大トルク6.2kgf・m/7,000r/min、乾燥重量214kg(XJ750Aは218kg)というスペックを獲得。「軽量・コンパクト・高性能」に磨きをかけて、スポーツ性の高い走りをますます際立たせた。
ある開発者は、XJ750Eのシルエットについて「作っているときは、こんなに精悍なバイクはかつてなかったと思っていたけれど、発売後、町のなかで見かけるようになると、どうも迫力に欠ける気がしてね……」と苦笑いした。しかしそれは、「軽量・コンパクト・高性能」を目標どおりに妥協せず達成した結果の裏返し。好調な販売実績が、余計な不安をすっかり拭い去ってくれたという。
ところで、ベースとなったXJ650とXJ650MAXIMのように、XJ750Eにはもう1台同時発売されたバリエーションモデルがあった。アップライトなライディングポジションと、スリムでシャープなイメージのボディデザイン、世界初のマイクロコンピュータ制御による集中警告モニターを備えたXJ750Aである。
これによってヤマハ発動機は、クルーザーのXJ650Specialとともに、ハイパフォーマンスな走りを楽しむスーパースポーツXJ750E、ヨーロッパスタイルのオーソドックススポーツXJ750Aという4ストローク4気筒のフラッグシップモデルラインナップを完成させた。その一方、RZ350/250で2ストロークスポーツ市場を再生し、またYSP創設など販路体制の整備にも力を注いだヤマハ発動機は、「人間にいちばん近い乗りものなんだ――YAMAHA
SPORTS BIKE」と社会へ向けて高らかにアピールした。
そういう意味でXJ750Eは、来るべきスポーツバイク新時代に向けて足場を固める、最後の切り札だったと言える。そして、XJブランドは「ペケジェイ」の愛称で多くのファンに親しまれ、その空冷4気筒スピリットは後のXJRシリーズへと引き継がれていった。
※このページの記事は、2004年6月に作成した内容を元に再構成したものです。
開発者インタビュー
PROFILE
水谷 昌司氏
(みずたに・まさし)
XJ650シリーズのエンジン設計チーフ
寺井 和夫氏
(てらい・かずお)
XJ650シリーズの車体設計チーフ
熊田 泰男氏
(くまだ・やすお)
XJ650のエンジン実験担当
ヤマハ4ストローク技術の確立を実感したXJ650
寺井:(XJ750Eのベースモデルとなる)XJ650の開発では、車体設計のPC(プロジェクトチーフ)をやらせていただきました。私が入社したのはちょうどXS-1の開発が始まったタイミングで、その後TX750やGX750、XS1100といった一連のビッグバイクの車体設計を部分部分で担当しましたが、PCという立場で車体全体をまとめたのはこのモデルが最初です。
水谷:私はエンジンのほうだけど、寺井さんと同じように4ストロークのビッグバイクばかりやってきました。最初の仕事がXS-1のカムシャフトの設計で、TX500の設計の後はXS1100のエンジン基本計画とPCをやらせてもらいました。その2年後ですね、XJ650のプロジェクトに入っていったのは。
熊田:私はお二人とはちょっと年齢が違うので……(笑)。XS-1が発売された頃はまだ高校生でした。ただ、あのモデルを見て「かっこいいなー」と思ったのがヤマハ入社のきっかけでした。XJ650は、ヨーロッパ向けのスポーツモデル(XJ650)とアメリカンタイプ(XJ650MAXIM)が同時に立ち上がったのですが、私は実験部門でXJ650のほうの性能テストを担当しました。
寺井:XS-1以来、先輩たちが4ストロークモデルの開発に苦労するのをこの目で見てきて、どうにかこのあたりでヤマハ発動機ならではの4ストロークをモノにしたいという気持ちは強かったですね。XJ650のプロジェクトでは、立場は一応PCでしたけど、そういう苦しい経験を積み上げてきた先輩たちに一つひとつ相談しながら作りこんだという思いがあります。
水谷:4ストロークの開発を始めたばかりの頃、エンジンに関しては「ライバルと較べて20年の差がある」と感じていました。その後、体制的にも強化されて、寺井さんが言うように先輩たちが猛烈な勢いで追い上げた。2気筒、単気筒、3気筒、そしてXS1100の4気筒と経験を積み上げることによって、最初20年と感じた技術の差が、XJ650の開発が始まる頃にはもうずいぶん詰まっていました。
熊田:いや、実感としては、もう遜色ないレベルまできていたと思います。「追いつき追い越せ」というところから、肩を並べて「よし、追いついた」というあたりまで、自信がついてきたというか。
水谷:1970年のXS-1に始まるヤマハ4ストロークの黎明期が第一世代、続く1975年以降のXS1100やSR500/400が第二世代とすると、1980年代最初のモデルとなったXJ650は第三世代と位置づけられると思います。さらにFJ1100とつないで、1985年以降の第四世代つまり水冷化されたFZ750まで来て、ついにライバルを凌駕したという実感を得るわけです。そういう視点でとらえると、XJ650はヤマハ発動機にとって「4ストローク技術を確立した」という手ごたえをつかんだモデル、と言えると思います。
寺井:車体開発という立場から言うと、このモデルのポイントはバリエーションモデルの展開にあったと思います。まず、アメリカからの要望でXJ650MAXIMを立ち上げて、やや遅れてヨーロッパに向けたXJ650に取りかかった。その後にボア ×
ストロークをアップした750ccで国内展開をしたわけですが、そういう広がりを当初から織り込んでいて、基本構造が同じ一つのフレームで性格の異なる複数のモデルを生み出す必要があったのです。
水谷:そうですね。そのあたりは、まさに寺井さんのマジックでした(笑)。同一フレームでスタイリングも、また乗り味もまったく違うモデルを生み出したわけですから。いまこうやってカタログを並べて見ても、同じフレームを使っているとはとても思えない。
寺井:いやいや。ただ、ここのところ社内では「プラットフォームの共通化」ということが盛んに叫ばれていますが、そういう意味ではXJ650はそのハシリだったとは思います。それまでもアメリカ向けモデルをヨーロッパ向けに仕様変更した機種がありましたけど、実はタンクを乗せ変えたり、ちょっとライディングポジションを変更した程度で、最初から性格の違う2つのモデルを作ろうと意図していたわけではなかった。
熊田:不思議なことに、このモデルでは、壁にぶち当たったとか苦労したという印象がないんです。要求値はすごく高かったけれどね。
水谷:うん、高かった(笑)。経営サイドとしては、RZ350/250とともにヤマハ発動機創立25周年を記念する新商品であり、また1980年代最初のモデルでもあったわけですから、「新しい時代の革新的な4気筒をつくれ」「性能、機能、外観のすべてで他社に負けてはいかん!」ということを繰り返し言われました。一方市場では、例えばヨーロッパから「アウトバーンで通用する操縦性と安定性がほしい」と強い要求があった。
寺井:開発期間とコストも……。
水谷:そうですね。日程は1年3カ月ときっちり期限を切られ、コストは1ドル=185円で成り立つようにまとめろ、と(笑)。そのうえ目標性能は乾燥重量200kgで最高速度200km/h。エンジン単体では重量90kg、全幅444mm、最高出力80馬力。「軽量・コンパクト・高性能」を極限まで追及するために、何案も出してトライしました。その結果が、全幅を詰めるため一体クランクのウエブに直接歯切りしたドライブ・ドリブン(パワーテイクオフ)であり、ジェネレーターのシリンダー背面配置やクランクケースと一体化したシャフトドライブのミドルギアであるわけです。
寺井:高い目標をクリアするには、担当分野ごとの責任を明確化する必要がありました。そこでエンジン、車体、電装関係がそれぞれ重量やコストの目標を作って、それをクリアしていく方法を採ったんです。また開発スピードのアップのために、モックアップの工程を飛ばして、クレイモデルからいきなり図面展開した。そういうやり方はたぶん初めてだったと思いますが、案外うまくいきましたね。
水谷:エンジンパーツの鋳造も初めて、砂型を作らずに金型でやった。これは設計に相当な自信がないとできない冒険ですが、当時の設計部隊は専任制(セクション別設計)で、みんな自信を持っていましたからね。
チェーンかシャフトか、だけでなく論争や競争の毎日だった。
熊田:XJ650の大きな特徴であるシャフトドライブですが、あれはどういう経緯で選択したんでしょう?
水谷:それまで、ヤマハ発動機はシャフトドライブの経験をかなり蓄積していて、上層部にも「これを独自の技術として確立したい」という気持ちがあったと思うんです。それにヨーロッパから、「メンテナンスフリーのシャフトで頼む」という要望もあった。当時、信頼性の高いシールチェーンが開発されたばかりで、判断が難しいタイミングでしたが、ヨーロッパの人たちは「チェーンはすぐに切れたり伸びたりする」という固定観念を持っていて、絶対シャフトだと言い張るんです。国内では理解しにくい感覚ですけどね。
熊田:XJ650では、シャフトドライブ特有の癖がほとんどなくなっています。当時の専門誌ジャーナリストの方々も、そこをずいぶん高く評価してくれました。
寺井:せっかくデザイン的にも優れたキャストホイールを作ったんだから、これをチェーンオイルで汚すのはもったいない、という発想もあったんじゃない?(笑)
水谷:シャフトかチェーンかに限らず、あの頃はいろいろなところで競争が多くありましたよね。ライバルメーカーとの競争はもちろんですが、社内に同時進行のプロジェクトがたくさんあって、その競争も大変でした。
熊田:私はXJ650担当だったので、まずMAXIMと競争です。エンジンのベンチテストをしていたとき、MAXIMも隣でエンジンを回し始めてね。向こうは確か64馬力。「そっちはスポーツだから68馬力出せよ」なんて言われました(笑)。
水谷:技術部のなかに熱気というか活気が満ち溢れていて、それに関連する各部門も大忙しだった。そういう状況では、試作部門や部品メーカーさんへの発注も、優先権の奪い合いになる。「これはレース用のパーツです。役員命令のものですから、特急でお願いします」なんて嘘をついたことが一度ならずありました。
熊田:国内に向けた750の開発では、当初、エンジンのパワーバンドが非常に狭くて苦労しました。評価の高かった650とは、走りがまったく比較にならない。そこで、チャンバーのなかを上下に仕切り、1番と4番、2番と3番を集合させて、そこからさらに集合する形に変更してもらったんですが、そのおかげでパワーバンドが広がり、高回転の伸びもグッと良くなりました。バリエーション展開をするなかで、車体のほうはどうでしたか?
寺井:同じフレームを使うといっても、もちろん細かい仕様の違いはたくさんあります。リアアームの剛性なんかも違いますし……。それは、スーパースポーツとオーソドックスなスポーツ、あるいはクルーザーなど、モデルの性格に合わせて走行性能やフィーリングを最適化するのが狙い。最初に振動対策をして、それから操縦性、安定性という感じで詰めていくわけです。
水谷:5年後(1985年)のFZ750でジェネシス思想を打ち出すことになるんですが、この頃、剛性や前後の重量配分についての考え方がかなり整理された気がします。
寺井:そうですね。車体で特に先進的な新技術の投入はありませんでしたが、それまで積み上げてきたことが全部入っていたと思います。
水谷:このモデルの開発で苦労したという印象が薄いのは、全社が一丸となってプロジェクトをバックアップしてくれたからでしょうね。今で言う「コンカレント」に近いことをやっていましたが、計画段階から関わっていただいた購買部門や生産技術、製造部門まで、本当にみなさん協力的でした。ありがたかった。
寺井:走行テストに入ってからも、百戦錬磨のテストライダーたちが最初から「いい!」と言ってくれたし、スムーズに仕事が進んだ。もともと素材が良かったんですね。これはバリエーションを広げていく上でとても重要だった。
熊田:ヤマハコースでテストして、谷田部でテストして、ヨーロッパからもテストライダーが来たし、こちらからもイタリアのナルドーに現地テストに行きました。「ナルドー用のエンジンを明日8時に梱包するから」と言われて、夜中にエンジンを組んだのを覚えてます。
寺井:XJシリーズはその後XJ650ターボ、XJ750燃料噴射などどんどん育っていって、車体でもおもしろいことをやりましたし、エンジンも息が長くて……。
水谷:そうですね、最終的にはディバージョン900(XJ900)まで約20年間続くわけですから。当時の設計では、まさかそんなこと思いもよらなかったけれど、後続の若手が知恵を絞ってやってくれたおかげですね(笑)。
※このページのプロフィール、および記事内容は、2004年6月の取材によるものです。