RZ250 開発ストーリー
展示コレクションの関連情報
開発ストーリー
最後の2ストロークスポーツに賭けたエンジニアたち
1970年代、アメリカEPA(環境保護庁)が発表した環境規制は、日本の二輪車メーカー各社に大きな影響を与えることになった。当時の日本製モーターサイクルの多くはアメリカ市場を主眼に開発されており、対米輸出を視野に入れないスポーツモデルなど数えるほどしか存在しなかったからだ。
規制の内容は、実質的に2ストロークスポーツを市場から締め出す厳しいもので、日本メーカーはこぞって4ストロークモデルの開発を強化。ヤマハ発動機も4ストロークを専門とする第4技術部を立ち上げて開発力を高める一方、2ストローク専門の第3技術部では主力モデル・RD400を排ガス規制に適合させようと努力した。そして1979年、エキゾーストパイプの出口にバタフライバルブを取り付けた改良型のRD400をリリースするが、エンジンパフォーマンスの低下を免れることはできず、開発に携わった技術者の多くが割り切れない思いを抱えていた。
するとその頃、「ヨーロッパではまだ多くのライダーが2ストロークのピュアスポーツを望んでいる」という声が本社に届いた。それは、第3技術部に籍を置く技術者たちの心を再び奮い立たせ、「ヤマハ2ストローク技術の集大成モデルを作りたい」という渇望に火をつけた。
排出ガス対策、騒音対策などの面でいえば、2ストロークエンジンよりも4ストロークが有利であることは誰もがわかっていたし、そうした時代のすう勢には逆らえないこともわかっていた。しかしヤマハ発動機にとって、2ストロークは創立当初から磨き上げてきた誇るべき技術である。簡単に捨て去るわけにはいかない。「最後の2ストロークスポーツを作り、そこに我々の技術のすべてを盛り込みたい」という技術者たちの気概が会社の意思を動かすまで、そう多くの時間はかからなかった。
営業や商品企画の部門が立案したマーケティング優先の商品ではなく、技術部門の情熱によって企画された極めて異例の生い立ちを持つ、RZ250/350の登場である。
胸のすくような加速感を、すべてのスポーツファンに
RZ250/350は、「正真正銘、最後の2ストロークスポーツ」という割り切りと強い決意のもと、2ストロークの良さを余すところなく表現する、すなわち2ストロークでなければ達成し得ない走りの実現を最優先して開発された。
そのため、エンジン設計や車体設計、実験部門は持てる技術を惜しみなく投入したが、むやみに高価な素材や複雑なシステムでスペックを作り込んだわけではない。「2ストロークの良さ」というひと言のなかには、走りの爽快感はもちろんのこと、モーターサイクルらしくシンプルな機構で、なおかつ多くのライダーにとって手の届かないほど高価なものであってはならない、という思いが込められていた。胸のすくような加速フィーリングを忘れられないすべての2ストロークファンに、ヤマハ2ストロークスポーツの集大成を提供することこそRZの使命だった。
エンジンは、市販レーサーTZ250/350で培った水冷2気筒。250で35PS、350で45PSというスペックは、当時のスポーツバイクとしては驚きの数字だった。また、エンジン単体の重量が空冷のRD400に対して12%軽量、フレームもやはりRD400に対して20%軽い13kgに収められた。軽快な走行性を実現するための軽量化はさらに外装部品にまで及び、樹脂製のフェンダーやサイドカバーを採用した結果、RZ250がパワーウエイトレシオ3.97kg/PS、RZ350にいたっては3.17kg/PSという数字を達成した。
また、2ストロークモデルの宿命とされていた振動対策のため、すでに社内で研究が進んでいたオーソゴナルエンジンマウントを採用。さらに市販ロードスポーツモデルでは初めてのモノクロス式リアサスペンション、65/55Wハロゲンヘッドライト、軽量キャストホイール&チューブレスタイヤなど、従来ミドルクラスになかった各種の上級装備が目を引いた。
空前のバイクブームを誘引したRZシリーズ
RZ250/350の発表は1979年。日本より一足早く、9月のパリショーにRD250LC/350LC(LC=リキッド・クール、水冷の意)という名称で登場すると、同年10月に開催された「第23回東京モーターショー」のヤマハブースは、すでに二輪専門誌で情報をつかんでいた大勢のモーターサイクルファンによって埋め尽くされた。
この時、RZ250に付されたスペックはパリショーのRD250LCよりもやや控えめな数値(33PS/8500r/min、乾燥重量134kg)だったが、存在感のあるパールホワイトの燃料タンクに加え、火炎イメージのキャストホイール、多段チャンバータイプのテールアップマフラー、特徴的な黒く大きなラジエター、アルミ製バフ仕上げのフートステップブラケットなど、流麗で挑戦的なフォルムを構成するパーツの一つひとつがファンの目を釘づけにした。
そして、RZ250の話題一色に染まった東京モーターショーが終わると、全国の販売店に予約が殺到。各地で開催された試乗会にもかつてないほど多くのファンが押しかけ、1980年8月の発売からまもなく、RZ250は計画台数を大幅に超える販売を記録した。
さらに1981年、"ナナハンキラー"と呼ばれたRZ350が登場するとRZシリーズの人気は頂点に達し、終焉を迎えるはずだった2ストロークスポーツは相次ぐ競合他社の参入によって再び息を吹き返した。しかもその勢いは止まることを知らず、250cc、400ccの"ロードレーサーレプリカ"モデルが大型化へ向かいつつあった国内モーターサイクル市場の流れを変え、やがて空前のバイクブームを牽引していくのである。
※このページの記事は、2004年5月に作成した内容を元に再構成したものです。
開発者インタビュー
PROFILE
岡村 忠氏
(おかむら・まこと)
RZ250/350のエンジン設計チーフ
橋本 秀夫氏
(はしもと・ひでお)
RZ250/350の車体設計チーフ
石本 幹雄氏
(いしもと・みきお)
RZ250/350のエンジン実験チーフ
「最後の2ストロークスポーツ」という覚悟で技術と情熱のすべてを注いだ
橋本:私はそれまでオフロードモデルの車体設計を担当していて、RZの開発プロジェクトには途中から参加しました。まずプロジェクトリーダーに呼ばれた時、「これが最後の2ストロークスポーツだ。とにかく俺たちにできることはすべてやろう」と言われ、ボッと心に火がつきました。RZについて、よく「2ストロークの火を消さないためにヤマハの技術者が……」という言い方をされますが、それは正しくない。正真正銘、ヤマハ最後の2ストロークスポーツとして取り組んだわけです。
石本:RZの前に、RD400の排ガス対策を担当していたんです。そのおかげで、いろいろな経験を積み、知識を得ることもできました。するとRD400の仕事が終わった頃、社内に「最後の2ストロークスポーツをやろう」という気運が生まれて、それならばこのノウハウをすべて注ぎ込みたいと、私自身はとても素直に入ることができましたね。
岡村:私は石本さんたちとRD400の排ガス対策に取り組んでいたんですが、一つわだかまりのようなものを持っていました。排気バルブを入れるなどの対策で、確かに狙った成果は上がりましたけど、そのかわり本来の2ストロークの良さが少しずつ失われて、まるで4ストロークのようにまろやかなバイクになってしまうということです。でも、RZには当初から「2ストロークの良さを全面的に出していこう」というコンセプトがありましたから、私だけじゃなく、それまでずっと2ストロークをやってきた連中の胸には、このモデルに賭ける思いがそれぞれあったはずです。
橋本:当時は2ストロークモデルを開発する我々の第3技術部と、4ストローク担当の第4技術部はフロアも壁を隔てていて、同じヤマハの社員でありながら互いに強いライバル心を持っていました。自分たちは衰退する2ストローク、向こうは伸び盛りの4ストロークということで、テストコースで鉢合わせしたりすると「俺たちのほうが速い」「向こうの650ccに負けてなるか」って目の色が変わりましたね(笑)。
岡村:確かに2ストロークは各種の規制で苦しい立場にありましたが、2ストロークのピーキーな加速感を求める人は必ずいると思っていました。そもそも、私たち自身がそうでしたし。
橋本:そうですね、開発に携わる人間の多くが2ストロークファンでした。2ストロークと4ストロークの技術者では仕事の仕方も違って、なんと言うか、計算で性能が出せない2ストロークの人間はフィーリングベースなんです。向こうがエンジニアなら、こっちは……カン(感、勘)ジニア?
石本:ははは! 確かにそういうところはありますよね。印象に残っているのは軽量化と振動対策、それからコストでの苦労ですかね。とにかく新しいことにチャレンジしていかないと、従来の方法ではパッケージに収まらないんです。
橋本:もともと2ストロークの良さには、シンプルで楽しくて、そして安いという意味も含まれていて、「あのバイクは欲しいけどとても手が届かない」というのではダメなんです。第一、私は絶対に自分でこのバイクを買うと決めていましたから、価格を高くするわけにはいかなかった(笑)。
岡村:エンジンの中身も徹底的にコスト対策していますよ。あれだけの性能とコストの折り合いをつける苦労は並大抵じゃなかったし、振動対策にしてもねえ(笑)。オーソゴナルマウントという手法を用いることで、車体の振動は大幅に少なくなるのですが、その振動のエネルギーを全部エンジンが引き受けることになる。私は4ストロークも含めていろいろなエンジン設計を担当しましたけど、これほど苦労したエンジンはありません。
石本:オーソゴナルマウントは、もともと先行開発の部門でXS650用に研究されていた技術です。ある時そのテスト車両に乗せてもらって、振動を抑える効果の高さに驚かされました。ただ、4ストロークはエンジンブレーキがよく効きますから、減速するときにエンジンがググッと動いてしまうような感じがあった。それで、「これは(エンジンのバックトルクが少ない)2ストロークに転用したほうがいいのでは?」と思い、RD400のエンジンをオーソゴナルマウントした車両でテストしてみたら、すごくいいことがわかった。それまで問題になっていた7000回転付近の振動がみごとに消えたんです。
橋本:高速道路をビューンと走って、サービスエリアに入ったらすぐにソバが食べられるバイクにしたいと思っていたんですよ。それまでの2ストロークは、振動で手がしびれて箸が持てないって言われていましたから(笑)。
石本:ああ、確かに。よくそう言われたね。
橋本:振動や軽量化などの課題については、それぞれ高価な材料を使えばよくなることはわかっていたんだけど、それはダイレクトに価格に跳ね返ってくる。当時はアルミなども贅沢な材料だったから使いにくくて、鉄という素材をどこまで使いこなして良い結果に結びつけるか、というところが勝負でしたね。それから、車体設計としてはデザイナーとのせめぎ合いのなかで、取扱い性を向上させるために、オイルタンクや冷却水タンクの取り付けなどはこだわっています。
岡村:我々も努力したけれど、協力会社や工場の人たちも大変な努力を払ってくれましたね。だからこそ、RZはみんなで作り上げた製品だという実感があります。例えば、最後の詰めで年末にベンチテストをやっている時、クランク周りが潰れてしまったんです。大慌てで工場に電話を入れたら、もう仕事納めでみんな忘年会に行ってしまったという。そこで恐る恐る忘年会の会場に電話して、「申し訳ないけれど明日から部品を作ってください」とお願いしたら、年末年始の休みを返上してきっちり仕上げてくれたんです。こちらとしては無理を承知でお願いするしかなかったんですが、そういう気持ちを汲み取ってもらえたことが何よりうれしかった。みなさんの職人気質に感謝、感謝です。
石本:それにしても、実際、あれほど売れるとは思いませんでしたね。私たちは、2ストロークの良さを全面に押し出せば必ず買ってくれる人がいると信じて作りましたが、当初の企画台数の3倍から4倍も売れた。そのおかげで、RZの仕事が終わって別の部署に移った後、週刊誌の取材を受けた覚えがあります。
岡村:「名車を開発したスタッフに話を聞きたい」ってね(笑)。その時、「私たちが作ったRZを世の中の人は名車と評価してくれたんだ」と、ようやく胸のつかえが取れた気がしました。
橋本:開発している頃はいつも睡眠不足で、肉体的に辛い日々が続いていましたけれど、それを大変だと思う気持ちは微塵もありませんでした。むしろ情熱を込めて仕事に取り組むことができて、いま振り返っても、本当に幸せな仕事をさせてもらったなと思います。
岡村:当時経営を担っていたのは、会社創設以来ずっと2ストロークに関わってレースに取り組んできたような人たちばかりだったから、私たちの仕事に対して深く理解し、全面的にサポートしてくれました。そういう意味でも、RZはすごくヤマハらしいバイクだったと思うんです。
橋本:最初は、金平糖のようにカドが立って個性的だった2ストロークエンジンが、いつの間にか丸いアメ玉のようになりかけていた。そんな時、RZがかつての金平糖らしい個性を持って現れ、それに気づいた他社も再び個性のある2ストロークモデルで対抗してきてくれた。そのおかげで、後の"レーサーレプリカ"ブームがあるわけです。あの時、他社が追いかけてこなかったら、おそらく、RZは本当に最後の2ストロークスポーツになってしまったでしょうね。
※このページのプロフィール、および記事内容は、2004年5月の取材によるものです。