GX750 開発ストーリー
展示コレクションの関連情報
開発ストーリー
ヤマハ4ストロークの未来を賭けたフラッグシップ
並列3気筒・4ストローク空冷DOHCエンジン、シャフトドライブ、3into1マフラー、トリプルディスクブレーキ……。特徴的な機構を数多く備えたGX750は、4ストロークスポーツ市場でヤマハの確固たる地位を築くフラッグシップとして、1976年に新発売された世界戦略モデル(海外向けの名称はXS750)である。
1960年代から1970年代前半にかけて、日本は高度経済成長のまっただなか。道路交通網の発達によって名神、首都高、東名、中央などの高速道路も次々に開通。旅客・物流の高速輸送化が進む一方で、モーターサイクルも大型化・高性能化の歩みを早めていく。
そのきっかけとなったのは、1966年に発売されたカワサキ650W1。続いて1968年、東京モーターショーでホンダがCB750を発表すると、1970年、ヤマハ発動機が初の4ストロークスポーツXS-1(650ccc)を発売。さらに1971年には、スズキとカワサキから2ストロークモデルのGT750、750SSが発売された。
ところがその間、高度経済成長の反動ともいうべき公害問題があちこちで顕在化。また1973年に始まった第一次オイルショックが世界経済を混乱に陥れ、大型モーターサイクルは燃費のよい4ストロークへと一気に流れが傾き始めた。「2ストローク&4ストローク」を基本路線としたヤマハ発動機も、1972年TX750、1973年TX500を相次いで投入し4ストロークモデルの強化をはかったが、4ストローク技術で先行するホンダCB750やカワサキ750RS(ZII)との差を埋めきれず、市場の評価は国内・海外ともに厳しさを増すばかり。GX750の開発は、そうした危機的な状況を打開するプロジェクトとして、1973年夏からスタートした。
さらにヤマハ発動機は、二輪開発部門の大掛かりな組織変更にも着手。二輪技術者だけにとどまらず、四輪エンジン開発部門などからも多数の人材を集めて4ストローク専門の第2設計部を新設し、GX750プロジェクトを強力に推し進めた。
ヤマハらしさへのこだわりが生んだ3気筒
開発にあたって、最大のポイントとなったのはやはりエンジン。すでに海外でホンダGL1000、カワサキ900 Super Four(Z1)などが人気を博していることを考えると、少なくとも国内最大排気量の750ccは必須条件だった。
そこでまず、TX650ベースの900cc・2気筒を叩き台としながら検討を重ね、排気量は750ccと決まった。では次に、レイアウトをどうすべきか。問題はそこからだった。本社エンジン開発スタッフは他社モデルと真っ向勝負の4気筒、アメリカの商品企画担当者は他社にない3気筒エンジンを主張して譲らない。さんざん議論を尽くしたすえ、担当役員の判断も加味して、ようやく3気筒とすることで決着した。
4気筒に比べて横幅が狭くコンパクトな3気筒エンジンは、車体のバンク角を十分に確保しながらエンジンの搭載位置を低くして低重心化することができ、操縦性の面でもデザイン面でも有利に働く。そうした「軽量・スリム・コンパクト」に対するこだわりと、4気筒に負けない高性能・高品質な3気筒を創るというチャレンジスピリット。それが「他社とは違うヤマハらしさ」につながるという判断だった。
しかし、120度位相・等間隔爆発の3気筒はクランク軸に一次慣性偶力が発生するため、振動が大きい。この宿命的なデメリットをなんとか解消しようと、さまざまな工夫が凝らされた。多気筒エンジンでは通常シリンダーの中間にあるカムチェーンを、エンジン左側に設置する方法もそのひとつ。各シリンダーの間隔を狭め、発生する一次慣性偶力を小さくした。さらに、エンジンの振動がフレームに伝達されないよう、マウント方法を徹底的に検証。ついにエンジン底部の2点で支持する方法を見つけ出し、この難問をクリアした。
また、GX750のもうひとつの特徴であるシャフトドライブは、高速・長距離ツーリングを楽しむライダーが多いヨーロッパからの要請に応えて採用した。しかしこれも、横置きエンジンとの組み合わせは前例が少なく、当初はベベルギアユニットを実績のある西ドイツのメーカーからアッセンブリーで購入。その後、数多くの改良と熟成を重ねて自社開発製品に移行したが、その過程で得た技術やノウハウは大きな財産となり、その後のVMAXやドラッグスターシリーズにしっかりと受け継がれた。
改良・発展モデルも個性派ぞろい
1976年に発売されたGX750は、最高出力60PSを発揮するマットブラックのエンジン、スラリと伸びる3into1エキゾーストシステム、滑らかなシャフトドライブが織りなすジェントルな走行フィーリングにより、上質な大人のためのビッグツアラーとして人気を博した。
さらに翌年、燃焼室形状やバルブタイミング、キャブレターなどを変更し、最高出力を67PSにアップ。エキゾーストシステムも、3into1から3into2に変更された。従来の3気筒を1本にまとめる太いサイレンサーは、右コーナーでのバンク角を浅くし、重量バランスのわずかな偏りが左右のハンドリングに微妙な影響を与えたからだ。
3気筒ツアラーとは言いながら、ハイパフォーマンスが売り物の4気筒750ccモデルに負けないスポーツ性の高さにこだわる、強い対抗意識の表われであった。
そして1978年以降、GX750の3気筒エンジンとシャフトドライブはますます熟成が進み、クルーザー的なデザインを取り入れて海外モデルの名称"XS"を冠したXS750スペシャル、排気量を拡大した海外向けモデルXS850、XS850ミッドナイトスペシャルなどさまざまなバリエーションモデルを生み出していく。
だがやがて、1981年に新しい時代を担う4気筒モデルXJ750Eがデビューすると、3気筒・GX750ファミリーはそのまま主役の座を譲り、5年間の活躍に幕を降ろす。その後現在にいたるまで、ヤマハモーターサイクルのラインナップに4ストローク3気筒モデルが登場することはなかったが、国内外累計15万1000台という販売台数は、ヤマハ4ストロークの存在を確固たるものとする、十分な働きを果たした証しといえる。
※このページの記事は、2004年4月に作成した内容を元に再構成したものです。
開発者インタビュー
PROFILE
中野 正俊氏
(なかの・まさとし)
GX750開発初期の車体設計チーフ
田村 修氏
(たむら・おさむ)
GX750のエンジン設計チーフ
吉田 滋氏
(よしだ・しげる)
GX750の走行実験担当
目標や理想を高く掲げて、ヤマハにしかできないものを作る
田村:GX750は、四輪エンジンから二輪に移ってきて初めて設計を担当したモデル。しかも生産が終わるまで、6年間も付き合ったのはGX750だけ。そういう意味で、苦労はしたけれど、一番愛着がある、思い出深いバイクですね。
吉田:確かに苦労した。3気筒エンジン、シャフトドライブ、キャストホイール(海外向けXS750)など新しいモノ、難しいモノをいっぱい詰め込んだバイクですから、開発の段階で課題が多く、本当に大変でしたね。
中野:そうそう、よくやったと思うよ。当時、TX750に代わるヤマハの新しいフラッグシップとして、他社にはないものを作ろうとした。要するに差別化ですよね。
田村:より良いもの作るために必要なこと(仕様)は、何でも織り込もうという勢いがありました。
中野:僕は開発がスタートした当初の状況をよく知らなかったので、「そうか3気筒なのか……」「シャフトドライブ?」「トリプルディスクもつけるの?」って単純に思っていました(笑)。だけど、疑心暗鬼にはなりましたよ。3気筒エンジンにしてもシャフトドライブにしてもまったくノウハウがなく、本当に差別化になるのかってね。
吉田:そう、ほかにない特徴を持っていても、きちんと性能が出て、ちゃんと走るものでないと意味がない。しかし、ヤマハモーターサイクルのフラッグシップですからね。他社に負けないバイクというより、とにかく目標、理想を高く掲げて、ヤマハにしかできない発想で最高の性能、品質のバイクを作ろうとしたんです。
田村:参考にするために他社のバイクもいろいろ調べました。とにかく何かヒントになりそうなことを探そうと一生懸命でした。
吉田:なにしろ、すべてがイチからの立ち上がりでしたからね。エンジンひとつとっても、4ストロークはXS-1から始まってTX750、TX500に続いて4回目ですが、3気筒は初めて。ほとんどノウハウや技術の面で引き継げるものがなかった。
田村:だから、4気筒でやりたいという声が根強かった。性能や振動の面では、3気筒が不利なこともわかっていましたからね。それに四輪エンジンの感覚からすると、二輪の要求性能は高かったですね。
吉田:シャフトドライブを使うから、どうしても車重が重くなる。これを加味して初期型は60馬力としたんです。
田村:翌年のモデルチェンジでは口径の大きいキャブレターを使ったり、燃焼室形状を変えたりして、ピーク回転を500回転上げ、67馬力まで出しました。
吉田:その時、サイレンサーも1本から2本に変えたんです。
中野:当初のデザインでは、1本から3本まで全部試したんですよ。だけど、最終的に一番格好がいい1本になった。それが2本に変わったのは、排気特性などのほか、1本では重量が右に偏るとか、バンクしたときに接地しやすいということも理由だった。
田村:実はその時トライした方法で、真ん中の1気筒分を2本に分けて左右のサイレンサーにつなぐスタイルがあった。ドキドキするようなすばらしい音が出たんですが、当時は二重管をうまく分岐する技術がなくて、生産車として採用できなかったのが残念でした。
吉田:そういうトライ&エラーは当時いっぱいありましたね。特にこのGX750は、初めての要素ばかりで、思いついたことは何でも試してベストな方法を探し出す。その繰り返しでした。
中野:振動対策がその最たるものですよ。フレームはXS-1よりはるかに軽くて、操縦性も安定性もすべて最初からOKだったのに、振動対策のため、ギリギリまで試行錯誤が続いたんです。エンジンからタンク、シート、ハンドルまであっちこっちラバーで浮かせて、それでもダメで、田村さんに「一次慣性って消せないの?」って相談したら、「ダメです」って一言(笑)。
田村:ひとつだけ方法がないこともない。気筒間の位相を120度ではなく、180度にすることで一次慣性偶力は消せますが、爆発が不均等になる。試作品も作りましたが、評価はよくなかったですね。
吉田:乗ると音が変だし、回転の感触や鼓動の感覚も変なんですよ。
中野:そうそう、なんだか乗っていて気持ちよくないし、おもしろくない。
吉田:ヤマハ発動機が作る以上、それじゃダメなんです。
中野:最終的に、振動はエンジンのマウント方式で解決しました。
吉田:確かに苦労をいっぱいしたけれど、その甲斐はあったね。4気筒や2気筒じゃ出せない、狙いどおりの鼓動感が達成できたと思いますよ。だからこそ、XSスペシャルのようなアメリカンタイプにも使われて、海外市場でも支持されたんです。
田村:吉田さんは、発売当時、アメリカへ行きましたよね?
吉田:はい。1976年3月、アメリカ大陸横断テストのために、生産試作車5台を持って渡米しました。現地スタッフと一緒に10,000kmの走行テストを行ない、その途中でデイトナレースに集まった10万人あまりの観客の前で走ってお披露目をしました。アメリカのスタッフも、初めての3気筒・750ccモデルがどんなものか不安だったでしょうが、これをやり遂げたおかげで自信を持って販売できたと思いますよ。3気筒と4気筒、シャフトドライブとチェーンドライブは、それぞれに良さがあって、どっちが上とかそういうことじゃない。我々は、GX750でその持ち味を最高のレベルで引き出すことができたと自負しています。
※このページのプロフィール、および記事内容は、2004年4月の取材によるものです。