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遊びは後ろめたさを超えられるか。“誰も悪者にしない姿勢”で描く、人とイワナのドキュメンタリー

遊ぶことへの「後ろめたさ」を乗り越え、自然と関係を結び直すにはどうすればよいのか。映画監督・坂本麻人さんとの対話から、そのヒントを探ります。

遊ぶことへの「後ろめたさ」を乗り越え、自然と関係を結び直すにはどうすればよいのか。映画監督・坂本麻人さんとの対話から、そのヒントを探ります。

2025年11月11日


地球上で最も多様な脊椎動物の一つとされるイワナ。源流域で暮らすその生態はいまだ謎が多く、「神秘の魚」とも呼ばれてきました。しかし今、その生態系が危機に直面しています。

そうした問題にスポットを当てたのが、2023年公開のドキュメンタリー映画『ミルクの中のイワナ』です。本作では、釣り人や研究者、漁業組合、企業といった多様な立場の声を丹念に拾い集め、川で起きている異変と、その背後にある構造的な課題を浮き彫りにしました。続く最新作『サクラマスのラストワルツ』(2026年公開予定)では、海と川を行き来するサクラマスを手がかりに、流域全体へとその視野を広げています。

イワナやサクラマスの生態系が直面している危機を通して、生物多様性や「種を守ること」の意味、そして地域社会と環境保全のあり方を問うサイエンスドキュメンタリー

両作で貫かれているのは、「誰も悪者にしない」という姿勢。そこには、「遊びが地球資源の消費によって成り立っている」という後ろめたさを乗り越えるための可能性が散りばめられています。

ヤマハ発動機の根源でもある「遊び」を通して、自然との関係を選び直すには——。そのヒントを、両作を手がけた映画監督・坂本麻人さんとの対話から探っていきます。

コロナ禍で会いたいのは、魚だった

映像作家として、なぜイワナなどの渓流魚というテーマにたどり着いたのでしょうか。

新型コロナの流行で人と会うことが難しくなった時期、「人以外で誰と会いたいか」と考えました。昔から釣りが好きだった僕にとって、その答えは魚、なかでもイワナでした。

かつてはたくさんのイワナが泳いでいた川でも、年々その姿を見る機会がどんどん減っている。そうした状況のなかで、これからもイワナに会い続けるにはどうすればいいのだろうか。イワナやそれを取り巻く環境と、僕たち人間のあいだにあるギャップをどう埋めていけるんだろうか。そうした疑問が出発点でした。

ギャップ、ですか。

近代化によって暮らしを守るためのインフラは整えられましたが、一方で、生き物や生態系という視点で考えるとどうでしょう。かつては川沿いで暮らし、山の資源を利用していた人びとも、次第に里や都市へと移り、分業化の波も相まって、僕たちの生活は自然の循環や生産と切り離されてしまいました。

生産が外部化され、消費に偏ってしまった結果、食の先にある資源との距離が生まれてしまったと。

最近の話で言えば、お米の問題が分かりやすいですよね。「食卓に並ばなくなる」ことでしか異変に気づけなくなるわけです。しかし、養殖などの生産技術が進んだ今ではそういった機会すらも減りつつあり、自然界に魚がいなくても生きていけてしまう現状にある。

そう聞くと、人間だけが、自然の生命活動や生態系から切り離されていっているような気がします。

鳥も、魚も、生きるために別の生き物を食べたい分だけ食べますよね。それにも関わらず、世界の生態系のバランスはなぜか結果として成り立っている。これって世界のすごい面白い、不思議な仕組みだと思うんです。

しかし、僕らはそうはいかない。獲る分/食べる分をコントロールしないと生態系をめちゃくちゃにしてしまう。そのことにすごく違和感を抱いてきました。本当は人間も、ほかの生物が織りなす循環の仲間に入りたい。でも、これまで生物多様性を散々めちゃくちゃにしてきた僕らが、今さら「仲間に加えてほしい」というのは、あまりに都合が良すぎますよね。

人間だけでなく、生物たちの営みも一緒に取り戻してこそ、初めて仲間になる資格がある。そのために、イワナのことをもっと知りたいと思ったんです。

魚から浮かび上がる、流域の問い

作品の制作過程で見えてきた課題とは、具体的にどのようなものなのでしょうか?

『ミルクの中のイワナ』では、漁協組合員を始めとした川の資源を管理をする方々の高齢化や担い手不足、放流の課題など、構造的な問題もふくめてフォーカスしました。なかでも、評価軸となるデータの圧倒的な不足は大きな問題の一つだといえます。

これだけ釣り人を魅了しているイワナでもそうなんですね。

川を面的に調査することは本当に難しく、とくに生活史が多様なイワナは研究が進みにくいため、その生態は未だ謎が多いんです。川を管理する現場の方々だけでなく、研究者の数も少ない。イワナは食料資源として重要視されているわけでも、絶滅危惧種に指定されているわけでもないので、守るための仕組みが整備されていません。

また、生態を知るには単年度での局所的なものではなく、上流から下流まで「流域全体」を長期間モニタリングする必要がありますが、当然コストもかかるので難しい。河川改修の際も、改修する範囲しか調査されないので、ある川の生態系や自然の状況を良くしようと向き合おうにも、そもそもどういう現状にあるかが誰も分からないんです。

「流域」という言葉がありましたが、最新作『サクラマスのラストワルツ』では、ダムや魚道、さらには林業など、取り扱う問題がより広範囲になっていました。

『サクラマスのラストワルツ』は、釣りや魚、川を起点に、それらと流域のなかで繋がるさまざまな立場や世界を取り上げ、それぞれの課題へと広げていきました。

サクラマスは、イワナと同じサケ科の魚であるヤマメが海に出たのち、産卵のために川に帰ってきた降海型の個体を指します。サケよりも上流域で産卵するサクラマスは、川での暮らしも長いので、海から川をもっとも広範囲で利用する魚なんですね。

生態系や環境を知るための指標となる生物は「アンブレラ種」や「キーストーン種」と呼ばれ、研究対象になることが多い。魚ってとてもリアリティがある生物なんですよ。環境が悪くなるとすぐにいなくなるし、良くしても戻ってこないこともある。けれど、環境に応えてくれる生物が必ずいると思っています。それが、サクラマスだったんです。

だからこそ、川、山、海──流域全体で今、何が起こっているかを知るには、僕らが生まれるはるか昔からそこにいて、川を最もよく知る彼らに聞くのが一番だと思ったんです。

その結果、川や魚の枠を超え、複雑に絡み合う課題に向き合わざるを得なくなった、と。

仰るとおりです。例えば、サクラマスの餌となる昆虫が増えるには、隠れ家となる落ち葉が必要です。また昆虫が川に落ちやすいような広葉樹の渓畔林や河畔林が豊かであることも欠かせません。

ところが、針葉樹の植林が進み、土地利用のために川が直線化された結果、落ち葉が滞留せず、瀬や淵、流速の多様性が失われ、エネルギーがそのまま海に流れてしまっている。本来は川が自然に蛇行できるよう復元することが望ましいのですが、河川の近くには人々の暮らしもあるので、そう簡単なことではありません。

このように魚の話から川、虫、林業、災害へと広がっていきますよね。住民、釣り人、漁業組合、農家、林業従事者、研究者、国交省……魚一つにフォーカスしただけで、ステークホルダーがこれだけ網羅的に出てくるんです。

“誰も悪者にしない”という選択

それだけ多くのステークホルダーがいるなかで、それぞれの考えをどのように紡いでドキュメンタリーにしていったのでしょうか?

「魚が減っている」といった状況証拠は数多く揃っているのに、その原因がはっきり分からないまま、対処療法的な対策しか取れていない。取材を始めて直面したのが、こうした現状です。

「何が原因なのか」という問いが、目の前の問題に矮小化されてしまいがちなうえ、法整備も追いつかず、古くからの方針や制度に則ってしか活動できない。その結果、自然再生と産業のあいだに溝が生まれてしまっている。本来は、魚や環境を守りたい、あるいは守った上で利用したいという目的は、どの立場でも一致しているはずなのに。

だからこそ、「映像作家」というフラットな立場を生かして、バラバラに点在する状況証拠を集め、体系的に整理していこうと考えました。善悪をハッキリさせて、誰かを悪者にするのではなく、希望のあるビジョンをみんなで一緒につくっていかないと、この状況はもはや乗り越えられないと思ったんです。

“誰も悪者にしない”という姿勢は、対話の土台をつくるうえでとても大切なことのように思います。

一匹の喜びを尊重する人もいれば、たくさん釣って持って帰りたい人もいる。後者を責めるのは簡単だし、僕らはいつでも悪者になれるんです。でもそれだと同じテーブルにつけないじゃないですか。釣れた分だけ持ち帰る人も、かつて魚が豊富だった時代を知っているだけかもしれないし、地球資源を最大限使っている点では誰も変わらないわけです。

だから、悪者なんていなくて、むしろ「たくさん釣っても大丈夫なくらい魚がいる環境」を取り戻すことこそが大切であると考えながら対話をしたほうが、きっと前に進めると思うんです。

そう聞くと、釣り人以外のステークホルダーが登場していく作品の構成も腑に落ちます。映像でそうした“対話”を表現するにあたって、どんなことを意識されたのでしょうか?

僕よりもはるかに深く、川や自然と向き合ってきた研究者たちの本質に迫るには、ただ話を聞くだけでなく、事前に論文を読み込み、しっかり議論を交わすことを重視しました。

そうやって対話を重ねるたびに新たな問いが生まれ、それを次の取材先に持っていく。すると、現状への理解が少しずつ深まり、胸の中にあったモヤモヤが解けていく感覚がありました。

取材は一人ひとり別の日に行っているのですが、完成した映像では、登場人物たちが同じテーブルを囲み、魚を真ん中に議論を交わしているように見える。まるで鑑賞者もその議論の輪に加わっているような、そんな作品にしたいという思いがありました。

インタビュー中の様子

『サクラマスのラストワルツ』では、文化人類学といった人文学の視点を新たに組み込んでいますよね。

それが技術や科学を頼りに問題を紐解いていった、前作との違いでもあります。

僕たちは何か問題が起きると、つい技術に解決策を求めてしまいしがちですよね。でも、次々と課題が湧き上がり、価値観も猛烈なスピードで変わっていく現代では、どれほど革新的な手法があっても、それがどの地域でも通用するとは限らない。

だからこそ、言葉にできない状況を丁寧に言語化し、本質に触れる問いを立てること。その問いを通して、誰かに語りかけたり、学び方そのものを更新したりする視座が必要だと思ったんです。

さまざまなステークホルダーや専門家を繋げていくというのは、映像作家という立場だから発揮できる役割だと思います。一方で、外の立場だからこその難しさもあったのではないでしょうか?

洪水のような情報量が流れる場で議論に入るのは、本当に難しいです。『ミルクの中のイワナ』を撮り始めたときは、まったく話についていけませんでした。しかも何者かも分からない人間が急に「イワナの映画を撮りたい」と取材に来ても、みなさんからしたら「ほんとにそんなことできるの?」という心持ちだったと思います。けど、やらなくちゃいけないんですよ。この議論に付いていける力をつけなきゃいけない。

実は、取材の打診を断られてしまいそうな先生もいたんです。悔しいので、数十冊の論文や文献を読み込んで、自分なりに編集して「僕はこれについて聞きたい」と再度お願いをした。すると、熱意が通じて取材の承諾を頂けたんです。こうした「受け入れてもらえた」という実感がどの現場でもあって、それが糧になるし、言葉を預かった人間としての責任にもなりますよね。だからこそ、それぞれの立場に立ってそれぞれの共通点を探りながら、誰も悪者にすることのない作品にしたかったんです。

遊びを起点に、再生を考える

作品制作のなかで見えてきたポジティブな可能性はありますか?

『ミルクの中のイワナ』では、誰でも扱える「環境DNA」の採水キットを可能性の一つとして提示しました。川の水を汲んで分析するだけで、その水域に細胞を落としている生物を把握できるという技術です。

興味深いのは、とある地域の河川調査で、スズキやカレイ、メバルといった海の魚のDNAが検出されたことです。それは、下水処理のない集落の食卓から生活排水として流れ出たものと推測されています。

採水のシーンを見たときは、釣りが「環境を消費する行為」から「環境を再生する行為」に変わる可能性を感じました。

漁協の人手不足や高齢化が進むなかで、圧倒的に数の多い釣り人が人海戦術で課題解決に関われるかもしれないというのは希望ですよね。

流域全体を面的に調査するのは本当に大変なことですが、それでも釣り人はそこに自らに足で通うんですよ。そして魚を釣るために、天候や水量、水温、川や森の状況、季節、餌となる虫など、あらゆる環境の変化を観察している。そうして積み重ねた“直感的な状況証拠”は、とても重要な情報だと思うんです。

釣り人が研究者や現場の方々と連携すれば、水源管理やレジャーを含めた資源として知見を蓄積していけるはず。何より、水を汲むだけの簡単な作業なので、子どもからお年寄りまで、釣り人以外の人々も関われる点が大きいと思います。

分析や解析はまだ高価で、一般の人が採集したサンプルを検査できる機構は限られていますが、テクノロジーの進化によって、見えなかったことが見えるようになってきている。その変化はポジティブに捉えたいですね。

実体験を通じて知識や技術を身につけていく、という点が何より大きいですよね。

実際に自然再生に関わり、そこで釣りをして、命を食べることでその実感を得る。そうした循環が、1年を通じた楽しみとしての「遊び」につながっていくのが理想だと思います。

やっぱり、常に「遊び」を起点に自然と関わることが大切なんです。生き物と直接向き合い、命のやりとりを今も体験できる遊びって、考えてみると釣りくらいなんですよ。だからこそ、釣りが投げかける問いは多いと思うんです。

社会を動かすために「遊んでますか?」

遊びを起点に自然との接点をつくるという話は、“これからの遊び”の創出を目指すヤマハ発動機にとっても鍵になるように思えました。

僕が作品を通して伝えていることって、釣りだけではなく、社会や企業活動にもあてはまることだと思うんです。今という時代は、一つの会社だけでは解決できないことが山積みだから、分野の垣根を超えて共通性を探り、力を合わせていく必要がある。その出発点は、やっぱり個人だと思うんですよ。

出発点は個人。

『サクラマスのラストワルツ』に出演している福永真弓先生は、「らしさ」という言葉で、その重要性を語ってくれました。この「らしさ」とは自分ひとりでつくられるものではなく、生まれ育った環境や親、友達、あるいは趣味や嗜好などさまざまな要素が関わっています。僕の場合は、川で、釣りをしているときが「自分らしいな」と強く感じるし、それを中心に据えればいいと思うんです。

とはいえ、それを意識するには、一度「自分」を俯瞰視して、「自分らしさをつくっているものは何か?」と見つめ直すような思考の技術が必要です。

それは企業や共同体でも同じで、組織の一員が個人として立ち返り、それぞれが社会や環境との共通点を見出していく。そういう場を積極的につくれる企業こそ、これからの時代に求められるのではないでしょうか。

それをふまえると、自分らしいと思える熱量に個人が気づく、一つの鍵となるのが「遊び」のような気がします。

自分の根源的な熱量が何なのかは、遊ぶことで分かると思うんです。遊んでなければ、やはり新しい遊びはつくれない。

これから市民が企業に対してやるべきなのは、「宿題」を共有して、対等に議論していくことだと思います。一つの分野だけで考えて、それぞれが解決策を見つけていくのではなく、それぞれの宿題を共有し自然や社会のあり方を議論し、前に進んでいく時代に入っている。その宿題というのは、やはり熱量をもって遊び合わないと互いに見えてこない。

だとすれば、僕がヤマハ発動機に出したい宿題は、「みなさん、地球と一緒に遊べていますか?」ということなのかもしれません。

坂本麻人さん 大阪生まれ。東京在住。ドキュメンタリー映像作家。2023年公開のドキュメンタリー映画『ミルクの中のイワナ』の監督・プロデューサーとして活動。過去には、岩手県・遠野市を舞台に死生観をテーマにした映像作品『DIALOGUE WITH ANIMA』を監督し、またカルチュラル・スタディーズツアー「遠野巡灯篭木(トオノメグリトロゲ)」の総合演出、プロデューサーとして活動。アーティスト長谷川 愛の映像作品『Shared Baby』(森美術館「未来と芸術」展 出品)や市原えつこ『未来 SUSHI 研究者は語る』(森美術館「六本木クロッシング2022」展 出品)などの監督・監修を担当。

取材・執筆:和田拓也 撮影:Yutaro Yamaguchi 編集:日向コイケ

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