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Yamaha Journey Vol.27

ヤマハ XT660Z テネレに乗るメタボン(望月康司)のユーラシア~アフリカ大陸横断ツーリング体験談です。

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地平線の先に広がる奇跡の出会い

メタボン

XT660Z テネレ

#01 アジアとヨーロッパは、繋がっているんだ
ロシア・モンゴル

東京の下町生まれ。日本ではロスト・ジェネレーションともいわれる1970年代前半に生まれて明るい未来を描けないまま、なにかを成し遂げたいという気持ちだけはくすぶり続けてきたメタボン(望月康司)さん。さまざまな出来事に背中を押されて出発し、人々の助けを借りながら突き進み、時に立ち止まる、ユーラシア〜アフリカ大陸横断の旅。

果てしなく続いて行くシベリア街道。シマウマでも居ればサバンナにも見えてくる風景。

シベリア街道(ロシア)

オリホン島で出会った若者と焚火を囲み湖面を眺める。
言葉は通じなくても分かり合える時が流れた。

バイカル湖(ロシア)

ガス欠寸前のテネレをトラックに乗せて荒野を抜けてきた。数日ぶりのアスファルトを見ると安堵感に包まれる。
ほど近い場所にあったガソリンスタンドで給油。

デルガー(モンゴル)

西モンゴル国境からロシアへ再入国した。
今までの風景とは一変してアラスカを連想するような風景が広がっていた。

アルタイ共和国(ロシア)

無謀とも思えるバイク旅の始まり。

今回の旅の原点となったのは、2006年にタイに滞在していた際の2週間のレンタルバイクツーリング旅。日本国内においても、バイク旅といえば関東近辺ばかりだった。
たったこれだけの経験で、ユアン・マクレガーの大陸横断バイクの旅「Long Way Round/Long Way Down」に触発されてロシアの東ウラジオストクからアフリカ大陸の最南端まで行くなんて、無謀だと思われても仕方がないだろう。それに加えて、前職である葬儀社での不思議な縁が旅の後押しになっているんだけれど、この話はまたのちほど。
今回の旅の相棒は、YAMAHAのXT660Z テネレ、通称単テネレ。ショウリョウバッタのようなスタイルと、冒険を感じさせるルックスが好み。タンク容量が23リッターと大容量のため長い距離を走破でき、多くの荷物を積んでも支障が起こりにくいという評判も決め手となった。

旅の前置きは、これぐらいがちょうどいい。そしたら荷物を48Lのパニア2つに詰め込んで、鳥取県の境港をDBSクルーズフェリーで出発だ。韓国のトンヘを経由してロシア・ウラジオストクまで、約11万円ほど。燃料サーチャージ含むチケット代は3万円ほどなのだが、バイクの輸送費や保険料などを含めるとこのくらいの金額に。
このフェリーの中では、のちのち何度も道中を共にする韓国人のファン君や、全身プロテクター姿のままで食事をしていて、なんならこのまま寝てるんじゃないかと思ってしまった50代男性のキム氏など、いろんなバイカーとの出会いがあった。
展望風呂やナイトクラブもあるという(自分は気づかなかった)そこそこ優雅な43時間の船旅を終えたら、いよいよロシア・ウラジオストクからバイク旅をスタートさせよう。

明るく親切だったロシアの人々。

ウラジオストク港のゲートでバイクを引き取って、慣れ親しんだテネレのエンジン音を異国の地で響かせると、いよいよ本格的に旅が始まるという実感が湧いてきた。身震いするような緊張感と、期待で高ぶる気持ちが入り混じる、これまでに感じたことのない気持ち。エンジン音を聞くだけで頰が緩んでしまう自分がいた。
6月のウラジオストクは少し寒いが、インナーダウンを着込めばやり過ごせるくらいの気温。もし耐えられなくなったらハンドルカバーとグリップヒーターが味方になってくれる。それまで僕がイメージしていたロシアといえば、どんよりとした曇り空に広漠とした平原、そしてしかめっつらの無口な人々。でも実際に走り出すと、そこはアフリカかと思うほどの雄大な大平原。のんびりと牛が道路を横切っていることもあれば、バイク仲間から「道路脇の茂みにトラがいる!」と写真が送られてきて肝を冷やしたこともあった。その辺りで野営をしたことがあったのだ。
出会う人はみな明るく、日本人を歓迎してくれる雰囲気。芝生が広がるのんびりした農村でヤマハの大型バイクVMAXを見つけて眺めていると、持ち主の青年が自慢げに声をかけてきて、「ウチの庭先でテントを張るといいよ」と誘われたこともあった。そこの女の子が人懐っこくて感情豊かで、覚えたての英語を一生懸命話していたのがとても印象的だった。

そういえばこの季節、粉雪がちらついているかと思いきや、タンポポの綿毛を一回り大きくしたようなものが舞っていることがある。実はこれ、ポプラの種。ちょっとした量なら綺麗なものだが、場所によっては地面を覆い尽くすほどの量となり、くしゃみや鼻水を引き起こす厄介者なのだとか。未舗装で砂利におおわれた道路も多く、大型車両が作り出したコルゲーションと呼ばれる細かな起伏が続くときは、まるで洗濯板の上を走っているかのような振動に悩まされた。
ロシアでは長距離トラックの停まるカフェ周辺は安全といわれており、手頃なホテルがない場合はそういった場所で野営を繰り返した。長距離ドライバーはみな紳士で、バイクトラブルで困っていると声をかけてくれる。自己主張せずとも察してくれるという日本人にも似た気遣いを感じた。バイカル湖で道路脇の土手下にバイクを倒してしまった際、通りすがりの老人と若者が助けてくれて、湖畔で一緒にご飯を食べたのもいい思い出だ。
冒頭に少し書いたが、ジュプへゲン周辺ではこの旅の後押しとなった事件の現場を訪ねた。私は以前、葬儀社で働いていたことがある。その際、ロシアでのバイク旅で暴漢の犠牲となった若きカメラマンがおり、不思議なご縁で日本でのご葬儀の担当をさせて頂くことになったのだ。告別式の朝、柩の中の彼と対面してその無念に思いを巡らし、喪主であるお父さまと話をさせて頂くうち、不思議なことに自分もバイクで世界を旅したいという思いが強くなっていくのを感じた。
その後もずっと心のどこかにそのことが残っており、ついに今回世界へ旅に出るとともに、彼の亡くなったその土地を訪れることにしたのだ。地元の方に尋ねながらたどり着いたその場所は、白樺の生えた意外なまでに美しい草原だった。
彼の面影を心に浮かべ、さまざまな思いを巡らせながらそっと手を合わせた。

モンゴル流のおもてなしとゲル生活。

海外初の国境越えでは、煩雑な手続きに加えて行列時のトラブルで時間を取られてしまい、7時間かけてモンゴル入り。大草原を貫く道路では野良馬が横切ることがあり、注意が必要だ。そしてモンゴルといえば、草原に突然現れるゲル。そこに住む人々は、控えめながらこちらをじっと見つめる瞳が印象的だった。ゲルを訪ねていくと歓待され泊まらせてくれたという話をのちに聞き、僕もそうすればよかったなと後悔している。 数日野営したのち到着した首都、ウランバートルは思った以上に都会で、例えるならば20年前のバンコクのような雰囲気だ。ツーリストの定宿として有名なオアシスカフェ&ゲストハウスで観光用ゲルに宿泊。形こそゲルではあるものの、この宿があるのは風の吹き抜ける大草原ではなく、ウランバートルの街中。そのためか湿気からくる独特の獣のような臭いが立ち込めていた。観光用のものと違い、一般の人々が住んでいるゲルは広くて快適。発電機などが普及していることもあり、TVや電話が使われていることもある。
モンゴルではどこに行ってもツァイ(モンゴル式の塩やバターの入ったミルクティ)でおもてなししてくれる。もちろんありがたく頂くのだが、時にヤギの乳の匂いがキツく、苦手なこともあった。チーズもさまざまな種類があり、「アールル」と呼ばれる、固く持ち運びにも便利なチーズは馬で旅するときの携帯食にも使われるという。こちらはまるでチーズケーキのようで本当に美味だった。食事で記憶に残っているのは、羊を塩で茹でたチャンサンマハ。寒さをしのぐためにカロリーを必要としているのか、脂っこいものが多かった。
ツーリング仲間に誘われて、モンゴル人の別荘で一泊おもてなしを受けたことも。モンゴルでは酒好きと見るや潰れるまで飲まされたり、嗅ぎタバコの吸い方にも礼儀作法があるなど、独特のしきたりが残っている。大理石の嗅ぎタバコケースを自慢げに見せてくれたが、これは一種の工芸品で富の象徴なのだそうだ。そんな噂を先に聞いていたため、酒もたばこも適度に頂きながら和やかな団欒を楽しむことができた。

荒天に悪路……トラブルは続くもの?

僕の滞在期間、モンゴルは異常気象に見舞われていたらしい。朝晴れているかと思うと突然スコール、というような天候がほぼ毎日続き、気がつくとあっという間に大草原が湖のような状態になることも。車が流されてしまう現場も目撃した。
悪路はロシア国境手前だけだと聞いていたのだが、アルタイ周辺もダートや深い砂地でフロントタイヤが持って行かれることも多かった。人はおろか家畜もいなくなり、見渡す限りの乾いた大地では地球の丸さを実感することができる。ちなみに「身長170cmの人が見渡せる範囲は4.65km」というのは覚えておくと結構便利だ。
そんな荒野をひたすら走っていると、突然雲行きが怪しくなり雨雲が追いかけてくる。焦って砂地にタイヤを取られ立ち往生していたところを、荷物を大量に積んだ5台のコンボイのドライバーたちに声をかけられた。目的地を告げると、「スコールもあるし、水かさの増した川は渡れるのか?」と心配してくれる。泥地と化した道を大荷物で走るのは想像以上にきつかったため、彼らなら信頼できるだろう、とパニアケースを預けて進むことに。比較的走りやすいコンボイのタイヤ痕を追いかけて、ひたすら走り続けた。

コンボイたちの助けもあり、なんとかゲルの並ぶ集落に到着。ガス欠寸前でやっと給油できると思ったのだが、スタンドは130km先、聞いてもどこにもガソリンは売っていない。かといって戻ることもできず、現地の人にいくらかのお金を支払い、トラックでバイクをガソリンスタンドのある街まで運んでもらうことに。
夜空の星と山の位置を見て方角を定めながら、演歌にも似た現地の歌で和ませてくれた彼。今日中には到着できるというので「これはこれでいい経験だな」と安心しきってのんびりしていると、なぜだか目的地手前の宿で降ろされてしまった。道を間違えたのか、もしくは到着を諦めてしまったのかはわからないが……。結局、この日は宿代を2名分払い宿泊することとなってしまった。

西へ進むにつれ、濃くなるヨーロッパ色。

国境を越えて再びロシア入りすると、そこには岩山や清流の流れる美しい風景が広がっていた。ときおり天気雨が降るのもなんだか爽やかな気分にさせてくれる。
モンゴルでは白樺ばかりだったのが次第に針葉樹に変わり、すれ違う車も日本車よりもヨーロッパ車が多くなる。進んでいくにつれ、さまざまな国のライダーを目にするようになると「アジアとヨーロッパは地続き」ということを当然ながら実感する。道路も舗装されて走りやすくなり、順調なペースで西へと走りを進めてゆく。
自然が美しいのもあってキャンプサイトが多く、ゴムボートで川下りしている人々もいる。僕が川のほとりで野営していると、ロシア人キャンパーが「一緒に飲もうよ」と誘ってくれてバーベキューをご馳走になったりしたこともあった。
そういえば、ロシアのショッピングモールでSNSの可能性を感じた出来事があった。僕が休憩していると目が合った見知らぬ女性。彼女はこちらにやってきて、スマートフォンの画面を見せながら「これはあなたですか?」と言う。つまり、SNSで僕をフォローしている人が声を掛けてきたのだ。日本ならまだしも、ロシアでの出来事。一緒に記念撮影をして、ちょっとした有名人気分を味わうことができた。
ジョージアの国境に向かう途中では、近くを走っていたポーランド人のリアタイヤがパンクしてしまい助けることに。車のウインドワイパーの破片が突き刺さっており、パッチを当ててみるもののどうにもならない。困っているところに偶然彼の知り合いが通りかかり、彼の持っていた新品のチューブに交換することができた。だが、いつの間にか辺りは暗くなっており、泊まるあてもない。思案顔でいると、近くのバイククラブで集まりがあるという。ありがたくお誘い頂き、そこに宿泊させてもらうとともに現地の人々との交流を深めた。こんな偶然の出会いに導かれて、人々の温かさに触れながら進んでゆくのが、バイク旅の醍醐味だ。
国境周辺のピャチゴルスクは情勢が悪いらしく、軍隊があちらこちらにいる。そんなピリピリとした雰囲気を感じながら、ジョージアとの国境へと向かった。


メタボン(望月康司)

1975年 東京生まれ。
バイクが好き、キャンプが好き、焚き火が好き。
仕事中にも愛車テネレとの旅を妄想する毎日。
休みは愛車にまたがりツーリングで憂さ晴らし。
もっと遠くへ、もっともっと遠くへ…
いつの間にか異国の地へと思いは巡るようになった。

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