YA-1 開発ストーリー
展示コレクションの関連情報
開発ストーリー
ヤマハ発動機の創業
ヤマハ発動機が誕生した1955年(昭和30年)当時、日本は神武景気と呼ばれる好景気に沸いていた。冷蔵庫、洗濯機、炊飯器などの電化製品が一般家庭に入り込み、経済白書には「もはや戦後ではない」という力強い言葉が記された。
一方、二輪車は戦後復興期の手ごろな移動・輸送手段として大活躍。その普及とともに二輪車メーカーも急増し、1953年には大小150社を超えたという。しかし、まもなく販売競争によって多くのメーカーが淘汰され、陸王、メグロといった戦前からのビッグネームは衰退。ホンダやトーハツといった新興メーカーが台頭する、そんな時代だった。
戦時中、軍用飛行機の可変ピッチ・プロペラを製造していた工作機械を利用して「新しい事業ができないものか」と思案していた日本楽器製造(現・ヤマハ株式会社)の川上源一社長は、可能な限りの調査と研究を繰り返し、ついにモーターサイクル事業への進出を決意する。決め手となったのは、ヨーロッパに派遣した技術者からの「日本のモーターサイクルは、世界と比較してまだ性能的に劣っている」というレポート。最後発の参入ではあっても、「世界に通用する製品を造れば、十分に需要を獲得できる」との判断だった。
そして1955年2月、YA-1の販売を開始。7月1日には日本楽器からモーターサイクル製造部門を分離・独立させ、ヤマハ発動機株式会社が設立された。
YA-1の開発、そして誕生
このYA-1が、ドイツ・DKW(デーカーヴェー)社の代表的モーターサイクルRT125を範としたことはよく知られている。DKWは、かつて自動車メーカー4社が合併してできたアウトウニオン(現・アウディ)の構成メンバー。2ストロークエンジンが得意で、1920年代には世界最大の二輪車メーカーとなった。特に名車と名高いRT125は、エンジンの構造がシンプルで信頼性が高く最適なお手本であり、スリムで美しいシルエットも楽器作りから転身した技術者の意欲をかき立てるものだった。
YA-1の開発は1954年3月にスタートし、2カ月後、早くも試作一号機を完成させるハイペースで進行する。さらにその夏、10台の試作機をそろえて10,000kmものハードな実走テストを行って、10月には型式認定取得までこぎつけてしまった。開始からわずか半年あまり、常識はずれの集中力が生んだ早業である。しかし、品質が疎かであっては意味がない。YA-1の生産にあたっては、高精度・高品質を維持するため1台1台手作業による仕上げが施され、なお厳しい品質検査をくぐり抜けた製品だけが市場に送り出された。
モーターサイクルは黒いカラーリングが当たり前だった時代、マルーンとアイボリーに塗り分けられた外観も鮮烈で、DKWのRT125を手本とするモーターサイクルが世界中に数多く存在したが、とりわけYA-1は仕上がりの良さで群を抜いていた。
その分、13万8,000円という価格は他社の125ccと比較しても大変高価だったが、やがて多くのモーターサイクルファンに受け入れられ、1957年末の生産打ち切りまでに約1万1千台のYA-1が誕生した。「重量あたりの値段が一番高いオートバイ」という評判は、軽量・コンパクトな製品像を語る上でも、また高い品質を持った商品性を語る上でも、極上の褒め言葉だったといえよう。
国内二大レースへの挑戦、そして制覇
しかし、後発メーカーのハンデは歴然と存在する。当時の人々にとって「ヤマハ」はあくまで楽器メーカーであり、YA-1がいかに美しく高品質であろうと、知名度の低さや価格の高さは致命的な足枷だった。実際、YA-1の販売が軌道に乗るまで、営業面でかなりの苦戦を強いられたことも事実である。
そこで川上社長は、YA-1の優秀性をアピールするため、当時二輪業界最大のイベント「第3回富士登山レース」(1955年7月10日)への挑戦を指示。創立したばかりのヤマハ発動機から、ウルトラライト級にYA-1精鋭チームを送り込んだ。
レースはタイムトライアル方式。静岡県富士宮の浅間神社から富士山二合目まで、24.2kmを一気に駆け上がるハードな設定だったが、さまざまな重圧を跳ねのけ、岡田輝夫選手が29分07秒のタイムで優勝。さらに3位、4位、6位、8位、9位まで独占する快挙を成し遂げた。
さらに3カ月後、長野県浅間山麓の北軽井沢運動場を出発点とし、浅間牧場から鬼押出しを経由して北軽井沢に戻る一周19.2kmのコースで「第1回浅間高原レース」が開催され、ここでもYA-1が1位から4位を独占(優勝/日吉昇選手)。そして国内の二大レースを制したヤマハ発動機、YA-1の名は、一気に全国のモーターサイクルファンの知るところとなった。
そしてもうひとつの収穫は、何ごとも全力で挑戦すれば必ず道は開ける、という教訓=チャレンジスピリットをチーム全員が身をもって経験し、共有できたことである。やがてそれは、長きにわたるレース活動やさまざまな製品作りを通じ、ヤマハ発動機の企業風土として浸透していく。
※この記事は、2003年3月に作成した内容を元に再構成したものです。
開発者インタビュー
PROFILE
大野 晃英氏
(おおの・こうえい)
ヤマハコミュニケーションプラザ/レストア担当
オリジナルの追求~YA-1レストレーション
我々の仕事はコミュニケーションプラザに展示する車両をレストアすること。趣味のレストレーションと違って、販売されていた当時の姿をあくまで忠実に、しかも走行可能な状態で再現することが要求されます。それにはまず、確かな資料の確保が重要ですね。
YA-1の場合、当時の図面が75%くらい残っていたのでそれを元にしていますが、当時は図面がすべてではなく、現場で辻褄を合せたり補足したりしたようで、図面から読み取れない箇所もあるんです。特にカラーリングに関しては満足な資料が残っていないため、あのマルーンの色を再現するのに苦労しました。当時の開発に関わった方たちに話を聞いても、「もっと明るかった」「もう少し渋い色だった気がする」など感覚的なコメントだったので、正解が得られなかった。それで、当時の写真を見比べたり、現存する車両のタンクの裏など退色の少ない部分を探して参考にして、最大限の力を尽しました。現在の展示車は、かなり忠実な色合いを再現できたと思いますよ。
もう一つは音叉のタンクマーク。これも周囲がメッキだ、いや磨き出しだったと両論ありましたが、どうもメッキではなかったようです。それと七宝焼きは、当時どこで作ったものなのか、まだわかっていません。京都のある会社に再現を依頼したところ、表面のRが微妙で「非常に難しい」といわれましたが、なんとかオリジナルに近い納得のいくものを作ってもらえました。
もっとも劣化が激しかったのはゴム製パーツ。シートやニーグリップなどは、図面や現存している実物を参考に、金型を起こして作り直しました。しかしタイヤは、どのメーカーにもYA-1に合うサイズが残っておらず、といって自作するわけにいかない。社内技術部を通じてタイヤメーカーにお願いし、特別に作ってもらいました。
エンジンやミッション関係は、加工精度が高く丈夫なのに驚きました。これまでに数台のYA-1をレストアしましたが、どれもギアやクラッチなどを交換せず、そのまま使うことができたんです。
このように、妥協せずあらゆる手段を尽し、ひとつひとつの製品を当時のまま忠実に再現するのが私たちの仕事。時には一般の詳しい方から「この年式にこれは違う」といった指摘を受けることもありますが、それは自分たちの仕事ぶりをちゃんと見てもらえた証拠です。ありがたいと思っています。
※この記事のプロフィール、および内容は、2003年3月の取材によるものです。