SRX600 開発ストーリー
展示コレクションの関連情報
開発ストーリー
当初の狙いは「SR後継モデル」
1980年代は、日本モーターサイクル界にとって、かつてない華やかな時代となった。続々と登場するニューモデルのカタログには「新技術」や「新素材」という言葉が躍り、スペックに記された数字は新しいモデルが発表されるたびに跳ね上がる。サーキットでは多彩な業種のスポンサーカラーをまとったレーシングマシンが大観衆の前を走り抜け、街中にはレザースーツで身を固めたライダーが溢れていた。
しかし、そうかと言って、すべてのライダーが同じ価値観で物ごとを見ていたわけではない。二輪免許取得者が増えるに従って価値観は多様化し、ライダーがモーターサイクルに求める要素も広がりを見せていった。例えば空前のレーサーレプリカブームに沸く一方で、1978年にデビューしたSR500/400が発売から数年を経て再び注目を浴び、性能よりもむしろ「カスタムすること」や「金属パーツを磨くこと」に価値を求める人たちの存在もクローズアップされはじめた。
SRX600/400の開発が始まったのは、そういう1980年代前半のことである。当初、開発スタッフが意図していたのは、SR500/400の後継モデル。市場の再評価を受けて販売が伸びてきたとはいえ、技術的な視点で見ればすでに旧式モデルであることに変わりはなく、その後いつまでも人気が持続する保証もない。フルモデルチェンジか、あるいはその魅力を継承する新しいモデルにスイッチし、改めて4ストローク・シングル路線の開拓しようと考えたのは、メーカーとして自然な流れだった。
市場調査の結果、SRを支持するユーザーやコンストラクターの熱意と愛情が想像以上に強く激しいことを実感し、「SRをなくしてはならない」と決断するのはもう少し後のことである。
骨のある男らしいシングルスポーツを創る
RX600/400の開発過程を振り返るとき、必ず語られるキーワードが「くたばれ、お気楽パコーン!」である。一部マスコミで使われた、当時流行の軟派サークル系テニスを揶揄する言葉が元になっており、開発スタッフ内部の口調なので表現は乱暴だが、「骨のある男らしいシングルスポーツを作って軽薄な風潮にくさびを打ち込もう」という心意気が込められている。
この言葉に呼応するように、開発段階では「必要なものにコストを惜しまず、不必要なものは絶対につけない」ことが徹底され、エンジン、車体、走行実験など、それぞれの担当者がそれぞれの分野でSRX「らしさ」を求めていった。例えばエンジンは、この時代であればDOHCという選択肢もあったが、「シングルらしい図太くトルキーな走りを追求するなら、DOHCは単なるギミックだ」という理由で迷わずOHCを選び、車体の担当者は「少しの労力を厭わないキック始動こそ男のシングル」とセルの装備を拒んだ。また走行実験のライダーも、あえて「自然に曲がるのではなく、ライダーの意思と技術でコーナリングする乗り味」にこだわった。
「必要なものには手間やコストを惜しまない」という姿勢がはっきり目に見えてわかるのは、独創的な外観。加工の難しい角パイプにこだわりカチッとした凝縮感を出すとともに、アルミニウムやステンレスといった素材の持つ表情を贅沢なまでに盛り込み、個性的に美しく仕上げられたショートマフラーはスタイリングに合わせたデザインを優先し、そのうえで性能・排気音を煮詰めていくという手法が採られた。
予想を超える幅広い層からの支持
こうして完成したSRX600/400は、"テイスト・オブ・ザ・ワールド"を提唱するまったく新しいカテゴリーのモーターサイクルとして1985年4月15日に発売され、当初の販売計画を大きく上回る大ヒットとなった。
時代が要求するものではなく、エンスージャストを自認する開発スタッフたちが「自分たちがつくりたいもの、乗りたいもの」「わかる人に乗っていただければけっこう」という気持ちで送り出したモデルだけに、SRX600が国内外合わせて19,000台、SRX400が国内だけで30,000台(いずれもシリーズ累計の生産台数)と多くのライダーに支持を受けたことは、当の生みの親たちにとっても大きな驚きだった。
その当時、2気筒、単気筒マシンによるレースイベントが人気を博し、SRX600は常勝マシンとしてめざましい活躍を見せたが、その気になれば当時のTT-F1クラスにも参戦できるよう、はじめから排気量を608ccに設定(4ストローク車は600~750cc)してあったという。それは、高性能スポーツといえばハイパワー、ハイスピードな大排気量・多気筒マシンばかりに目を向ける二輪市場に対するアンチテーゼであり、開発者たちの意地でもあった。
※このページの記事は、2005年1月に作成した内容を元に再構成したものです。
開発者インタビュー
PROFILE
吉田 有朗氏
(よしだ・ゆうろう)
車体設計チーフ
一木 富士男氏
(いっき・ふじお)
走行実験チーフ
一条 厚氏
(いちじょう・あつし)
デザイン担当(GKダイナミックス所属)
プロジェクトリーダーはハリセンを忍ばせていた
一木:こうやって一条さんや吉田さんと久しぶりに顔を合わせると、SRXプロジェクトのメンバーは度を越したモーターサイクル・エンスージャストの集まりだったなあと、つくづく思いますね(笑)。
吉田:バイクの話を始めたら一人ひとりが何時間も語ってしまう、そんな濃い顔ぶれでしたね。
一木:我々のなかには「シングルこそバイクの原点だ」という強い思い込みがあって、そんなことばかり熱く語り合っていました。
一条:合い言葉は"くたばれ、お気楽パコーン!"。男のシングル、硬派なシングルを作ろうと。
吉田:新しく出てくるバイクはどれもこれも大きなカウリングに囲まれて、「これじゃライダーが手を入れられないじゃないか。本来バイクはもっとシンプルなものだ」と。バイクだけじゃなくて、'80年代は社会全体に妙な"軽さ"が渦巻いていましたから、そういう風潮に対して我々の武器であるバイクで問題提起をしたかったんですね。それで"くたばれ、お気楽パコーン!"と。
一条:プロジェクトリーダーはじめ、エンジンの担当者も車体の吉田さんも、それからデザイナーの私も、みんな30代後半から40代前半。そういう世代から軟弱な若い連中にぶちかまそうという、そんなエネルギーがありました。
吉田:実験の一木さんは若かったけど、走りが熱かったから仲間になれた(笑)。当時、お笑いの世界でパコーンと後頭部を叩くハリセンというのが流行っていて、プロジェクトリーダーは本当にデスクにそれを忍ばせていました。
一木:うそっ! 本当に? それは知らなかった。でも、エンスーのなかのエンスー、こだわりの塊みたいなプロジェクトリーダーを納得させるものを作るんだ、というモチベーションが強く自分のなかにあったのは事実です。
吉田:エンスーがこだわって作ると、たくさんの人に乗ってほしいというモデルにはなりませんよね。SRXは、まさにそういうモデルだったと思います。モデルチェンジ後にセルがつくわけですが、当初は「キックでエンジンをかけられない方には乗っていただかなくてけっこう」と本気で思っていましたから。
一条:私ね、よく覚えているんですけど、SRXが発売されたばかりの頃に街中で汗かきながらキックを繰り返しているライダーに会ったんです。で、気の毒になって手伝ったんですけど、中途半端にエンジンが暖まっているとなかなかかからないんですよ。
一木:確かにそういう傾向はありました。そんな時は無理しないで、一服して休んで……というSRXからのメッセージなんですよ、きっと(笑)。
吉田:完成して二輪専門誌向けに発表試乗会をやった時も、汗だくになっているジャーナリストが何人もいました。フートレストに乗って、思い切り蹴っているのにかからない。でもコツさえ飲み込めば、足を地面につけたまま簡単にかかるんですけどね。
一条:自分たちとしては、「こだわりを持ったライダーは共感してくれるだろう」というくらいに考えていましたので、正直なところあんなにたくさんの人が買ってくれるとは想像できませんでした。
吉田:女性とかね。申し訳ないけれど、開発の段階ではまったく意識していなかった。
一木:走りにしてもそう。自然に曲がっていく高性能バイクではなくて、太いトルクを使ってリアで旋回していくような、言い換えればライダーの意思と技術で曲がっていくような乗り味をあえて求めたり。決して手軽に乗れるバイクではありませんでした。
めざしたものは「モダンシングル」
一条:一方で嬉しかったのは、当時非常に難しかった限定解除を乗り越え、ハイパワーのナナハンではなく、あえてSRX600を選んでくれたライダーがたくさんいたこと。でかいとか速いことがステイタスでエライというムードがあるなかで、我々の求めたテイストを理解し共感してくれるライダーがいたわけだから。
吉田:特にSRX600は、後ろから見ると250cc並みのサイズだから、ぜんぜん威張れなかったはずですよ。
一条:今日は秘蔵の1/1スケッチを持ってきました。これを見ていただくと、どれだけスリムでコンパクトだったかを実感できるはずです。
一木:すごい。1/1のスケッチを起こしたんですね。知りませんでした。
一条:もちろん、普通はこんな手間のかかるもの描きませんよ。後にも先にもVMAXとFZ250フェザー、それからこのSRXの3モデルだけ。僕自身シングルが大好きで、SRXのプロジェクトが立ち上がるときに「やらせてください」と立候補した経緯があるから、そういう意気込みをこの1/1スケッチで表現しようと思った(笑)。
デザインに関して言うと、すでにSR500/400があるわけだから、同じようなものを作っても仕方がない。シングルというベーシックなモデルであることに変わりはないけれど、クラシックに逃げたくはなかった。といって、未来的なデザインでもない。時代の真ん中にいる、求めたのはそんな存在感。それをもっと詰めて、出てきたのが「モダンシングル」というキーワードです。加えて、日本のデザインの美しさ、ジャパン・オリジナルなバイクを創り出したいと強く意識していました。
吉田:こういうデザイナーと一緒に仕事するから、毎日がせめぎ合いですよ。絶対に譲らない(笑)。そのしわ寄せは、特に性能を出す役割の一木さんたちにまわって来る。
一木:そこは、喜んで引き受けていた気がしますよ(笑)。
吉田:車体設計の立場で言うと、方向性を持っている角パイプというのは非常に扱いにくいんです。それなのに一条さんはエンジンのラインにぴったり沿ったフレームワークを譲らない。フレームの一部がボルトオンになっているのはそのためです。
吉田:それと一条さん、正月休みにクレイモデルを東京へ持って帰っちゃったでしょ? その後戻ってきたら、なんだか全体に細くなっている気がして、実際に測ってみたらやっぱり削られていた。それでエアクリーナーの容量が足りなくなって、「こんなんじゃ性能出ない!」と現場から文句が来た。どうも一条さんは、正面から見て、フロントフォークの幅に全部を収めたいようでした。
一条:いやあ、古い話なので忘れてしまいました(笑)。でも本当のところ、開発のみなさん、特に設計担当の方にはいろいろとご苦労をおかけしました。それだけ、デザインに対してみなさんが理解してくださったということ。金属パーツのコストについても……。
吉田:単にギミックだけの装備は極力やめようという暗黙の了解があったのですが、一方で「お金をかけるべきところにはケチケチしない」という意識もありましたね。
一条:普通、社内でプレゼンテーションする時には、金属パーツもクレイモデルにアルミっぽい塗装をするだけなんですけど、SRXではマフラーカバーとメーターパネルに本物のメタルを使ってプレゼンテーションをしました。叩き出しでワンオフのパーツを作ったんです。どうしてもアルミでやりたい、という一心。そしたら、「そこまでこだわるなら仕方ない」とOKが出た。
吉田:メーターパネルも、一条さんこだわりの白。
一条:SRXが発売されたら、クルマでも白いパネルを使い始めた。
一木:僕らは視認性がよくないと反対したのに、突っぱねられた(笑)。そこで目盛りの色を工夫したり、ほかの手段で視認性を高める研究をしたんです。
吉田:タンクに音叉マークを使ったのも、当時のデザインからすると異例なことでした。
一木:でも最後まで押し通した。それだけじゃなく、関東のYSPでは、初期の購入者プレミアムとして木箱入りの七宝焼きエンブレムをプレゼントしたそうです。
吉田:モーターショーには輪島塗りのモデルを参考出品した。実は私の親戚の職人に頼んで塗ってもらったんですが、「これを売るんですか?」と質問されて困った(笑)。
一木:あまり知られていないんですけど、発売のちょっと前、筑波サーキットの「バトル・オブ・ザ・ツイン」というレースにXT600改という扱いでSRX600を出したんです。あくまで開発サイドの腕試しでしたが、並み居る歴戦マシンを押しのけて3位に入った。
吉田:だけど、そうやって世に送り出した後、僕らはもう次のことを話していましたね。「今度はバリバリ回るシングルだ!」と。
一条:どんなに全力で「やりきった」としても、それで満足できないのがエンスーなんです(笑)
※このページのプロフィール、および記事内容は、2005年1月の取材によるものです。