SEROW225 開発ストーリー
展示コレクションの関連情報
開発ストーリー
SEROWというカテゴリーを築いた唯一無二の存在
1985年8月の発売以来、オン・オフモデルでは異例のロングセラーとなったマウンテントレール「SEROW225」シリーズ。その独創的な世界観とトレッキングを楽しむための洗練された機能は、既存のトレールモデルの枠を超え、「SEROWという新しいカテゴリーを確立した」とさえ言われる強烈な個性を放ち、セローイストと呼ばれる熱心なファンを生み出していった。
SEROW225が登場する以前、ヤマハトレールのラインナップは、DT-1から血統を受け継ぐ2ストロークモデル・DTシリーズと4ストローク路線を推し進めるXTシリーズが双璧を成し、お互いに高性能化を競い合っていた。しかし市場では、オンロードの2ストローク"レーサーレプリカ"から飛び火した"モトクロッサーレプリカ"に勢いが傾きはじめ、YZシリーズに近い志向を持つDT200R(1984年発売)は販売台数で同年のXT200を大きく上回った。
それでも、このXT200を誰より高く評価していたのは、DT200R開発チームのスタッフたちだった。125cc並みの車体サイズに4ストローク200ccならではの力強いトルク、思いのままに振り回せる痛快さはDTにない魅力である。「この質の高いモデルを埋没させてはならない」という気持ちが、まったく新しいコンセプトを持ったニューモデル、SEROW225の開発につながっていった。
登って下って転んで。体験型開発プロジェクト
「SEROW225を開発した場所は山だった」と、多くの開発者たちは口をそろえる。それはけっして比喩的な表現ではなく、たびたび彼らはXT200ベースの試作車とともに山の懐深く分け入った。もちろんテストコースの敷地内ではあったが、開発の中心的な役割を果たした走行実験ライダーが先導するルートは、従来のトレールバイクの開発で使うフィールドのさらに奥。かつて足を踏み入れることさえない「道なき道」である。落ち葉が堆積した長い登り、粘土質のキャンバー、入り組んだ木の根が顔を覗かせる急坂……。助走をつけるスペースもなければ途中で休むポイントもない。少々モトクロスには自信があるスタッフも、トライアルを趣味にしていたスタッフも思わず尻込みしてしまうような光景が次つぎと現れた。
「競技じゃないんだから、安全優先で足はどんどん着こう」「一人で登れなかったらみんなで助け合おう」。そんな言葉が次から次へと飛び交うシビアなツアーを何度となく繰り返し、その経験から新しいモデルのコンセプトが生まれ、すべてのスタッフに浸透していった。機能・性能の作り込みも同様である。専門のテストライダーが試作車について要求を出し、設計者が対策・改良を加えていくという通常の開発プロセスとは異なり、車体設計やエンジン設計の担当者自身が「なぜ必要か、どのようなものが必要か」身をもって体験し、練り上げていく。例えばハンドルスタンディングというフロントのグリップバーも、こうして吟味され装備されたパーツのひとつだ。
SEROW225とは、「つまり山男の道具。その道の達人が選ぶ質の高い道具をめざそう」という開発スタッフの思いを凝縮して生まれたモーターサイクル。「走る、曲がる、止まる」という基本要素に「登る、下る、転ぶ」を加え、マシンだけに頼らず、ライダー自身も両足、全身を使って藪を漕ぐ。
だからこそ「二輪二足」。発売当初、SEROW225の本質をもっとも端的に表現するキーワードとして、この言葉が使われた。トライアル車ではない。ましてやモトクロッサー、林道スプリンターでもない。まったく新しいマウンテントレール、SEROW225の誕生である。
街へ高速道路へとフィールドを広げたカモシカ
1968年のDT-1発売以来、トレールの世界を牽引してきたヤマハ発動機は、新しい価値を持った製品を市場に送り出すと同時に、それらのモーターサイクルを100%楽しんでいただくための普及活動を積極的に展開した。ヤマハトレール教室はそのシンボルといえる存在で、その後さまざまなスタイルのライディングスクールに分化し、1980年代後半からのエンデューロブーム、草モトクロスブームを支えた。
その流れのなかで、腰高が当たり前だった他のオフロードモデルと一線を画す足つき性のよい車格、素直なハンドリング、扱いやすいエンジンが特長のSEROW225は、オフロード入門モデルとして人気を集め、多くの女性ライダーまでも獲得。さらに1989年のモデルチェンジでセルスターターを装備すると、むしろ軽快で便利な街乗りバイクとしての側面が大きくクローズアップされていった。
しかし、「SEROWがSEROWらしくあること」にこだわるヤマハ発動機は、発売10周年を機に、同様の意識を共有するファンに向けてSEROWトレッキングパーティーというイベントを開催。これを「街に下りたカモシカが再び山に戻る」きっかけとして、日頃多くの時間を街で過ごしていても、週末は本当のSEROWの姿に戻り、マウンテントレールならではの楽しみを満喫しようと呼びかけた。
同時に、自然の懐に分け入って遊ぶ道具を提供する責任から、ヤマハ発動機は自然環境保全についての啓蒙活動を徹底した。エンジンを切って耳を澄ますことの気持ちよさ、手つかずの自然のなかで遊ばせてもらっているという感謝の念……そうしたメッセージをイベントや広告を通じて投げかけ続けるなかで、オーナーの間ではごみ拾いをはじめとするさまざまな運動が自然発生的に生まれていった。
こうしてSEROW225は、日常と非日常、オンとオフ、街乗りとトレッキングという異なる環境にバランスよく適応しながら機能・性能・デザインを進化させ、2005年、ついにSEROW250へとフルモデルチェンジした。あくまでマウンテントレールとしての立ち位置を守りつつ、街乗りに高速道路の快適さをプラスした成果である。
山で生まれたカモシカは、どこまで活動フィールドを広げようとも、帰るべき場所を見失うことはあり得ない。
※このページの記事は、2005年4月に作成した内容を元に再構成したものです。
開発者インタビュー
PROFILE
石井 喜好氏
(いしい・きよし)
車体設計チーフ
鈴木 貞英氏
(すずき・さだひで)
エンジン設計チーフ
近藤 充氏
(こんどう・みつる)
走行実験担当
けもの道を走って転んで助け合って作ったSEROW
近藤:SEROW225の開発が始まったのが1983年。その少し前まで、社内の開発体制は2ストローク専門のグループと、4ストロークモデルの開発を担当するグループに分かれていて……。
石井:そう、私や近藤さんは2ストロークの担当。直前までDT200を一緒にやっていた。
鈴木:私は4ストロークのエンジン設計をやっていて、その頃の担当はクルーザーのXV750/1100Virago。オフロードモデルはSEROWが初めて、ましてやエンジン設計のプロジェクトチーフという役割を担ったのもこれが初めてでした。だから当然、気持ちがすごく入っていたし、いま振り返ってみても、とても大切な一台なんです。
近藤:石井さんたちと2ストロークモデルの開発をしてた頃は、隣で作っているXT200を横目で見ながら「あれには絶対に負けないぞ。俺たちのDT200こそスーパートレールだ」という、妙なライバル意識みたいなものがありましたよね?
石井:あった、あった。ところが次は、そのXT200をベースにしてSEROW225を作ることになってしまった(笑)。
近藤:SEROWのルーツを頭のなかで整理していくと、私としてはDT125のアメリカ現地テストに行き着くんです。カリフォルニアの西部にハングリーバレーというオフロードライダーの聖地がありましてね、そこではみんな、けもの道や岩場みたいな場所でバイクを走らせているんです。
鈴木:当時の日本は、オフロードと言えば、そくモトクロスごっこみたいなイメージでしょう?
近藤:そう。ヤマハ発動機のテストコースにも、その頃はまだ本格的なトレールコースがなくて、ほとんどはモトクロスコースのような環境で走行テストをしていたわけです。だから、完成したしたばかりのDT125をハングリーバレーに持ち込んでも、現地のライダーに「ハンドル切れ角が少なすぎる」「岩場で腹をこすってしまう」と、次つぎにダメ出しをされてしまった。トレールバイクが、まさかトライアル車みたいな使い方をされるとは思ってもみなかったから、私にとっては非常にショッキングな光景でした。しかも走行実験担当なのに、そういうコースでは彼らのようにうまく走れなくて、そっちのほうでも悔しい思いをして帰ってきた。
石井:近藤さんが走れないって言うんだから、本当にすごいんでしょうね。
近藤:うん。それでも、この経験をぜひみんなに伝えなくてはと考えて、テストコース内にハングリーバレーのようなトレールコースを作ったわけです。コースづくりと言っても、山の下草を刈って、「こんなターンがあったよな」という感じで木にコーステープをしばりつけただけのものだったけどね。だけど、そうして手作りしたけもの道コースがSEROWの原点、マウンテントレールを生みだす土壌になったんじゃないかな。
石井:XT200は非常によくできたバイクでしたけど、ビジネス的に成功しているとは言えなかった。当時はストリートもオフロードもかっとび志向で、XT200のようなモデルがヒットする市場ではなかったからね。
近藤:XT200なら、ハングリーバレーで「いいバイクだね」と言われるような気がしていた。だから石井さんたちと一緒に4ストロークを担当することになったとき、「この素材を生かしていく道はないか?」ということが自然に討議されるようになったわけです。
石井:でも、いろいろ話して、いくら論議を進めても「これだ!」というところまで行き着かなかった。「それじゃあ、先に提案車となるモデルを作っちゃおう」ということで、近藤さんを中心に、手作りフレームと寄せ集めの部品で一台作ったんです。「こういうモデルが欲しいんです」と理解を得るためのね。
近藤:それをプロジェクトチームの人たちに乗ってもらった。
鈴木:そう、テストコースの中とは思えない、すごい山道に連れて行かれた(笑)。道先案内人であり先生でもある近藤さんの後ろを私たちが着いて行くんですが、「ええぇっ!
そんなところまで入っちゃうの!」と驚くばかりの、まさにけもの道……。
石井:私は覚えてるシーンが二つある。ひとつはトライアル車でも登れないような斜面の途中でスタックして、全員に支えられたり、引き上げられたりしながら汗ダクダクになって登りきったこと。それともうひとつは、ひぃひぃ言いながら一生懸命着いていったら、急に視界が開けてすごく眺めのいい場所にたどり着いたこと。
近藤:それはコース設定の段階で巧妙なシナリオがありましたから。苦労をしてもらって、みんなで助け合いながら先に進んで、最後にはとびきりのご褒美があるという美しいシナリオが……(笑)。汗を拭きながら壮大な景色を見とれているみんなに「はい、お疲れさん」とリュックからジュースやコーヒーを出す……。
石井:これがまたうまいんだ。そういう周到な罠に、まんまと引っ掛かったんだ、我々は(笑)。
鈴木:ただ、あのツアーのおかげで「こんな楽しみ方があったのか!」「近藤さんが目を輝かせて話す世界はこれなんだ!」という新しいモデルの狙いは、確かに身に沁みて実感することができました。
石井:すごく大切なことだよね。たとえば車体関係だと、「こういうハンドルスタンディング(手でマシンを引き上げることを想定したグリップ。フロント1ヵ所、リア2ヵ所に装備し、フラッシャーランプガードも兼ねる)が必要なんだ」と言われても、どういう形状のものがどこに付いていなければならないのか、もうひとつ理解しにくい。でも、自分が坂でスタックしてみんなに助けられると、「そうか、こことここにハンドルバーがあれば車体を引っぱりやすいし、支えやすいんだ」と体験的にわかる。そして何より、「足が着くって大切だな」と思った(笑)。安心感じゃなく実用として……。
鈴木:エンジンだって同じです。なぜ下のトルクが欲しいのか、どれくらい必要なのか、なぜそこまでスリムでなくてはならないのかということが、走って転んで起こしてわかっていくんです。起こした後にはエンジンも掛けなくちゃならない。だから転倒後の再始動性は妥協できないとかね。
近藤:みなさんがそういうふうに苦労しているとき、道先案内人の私はけが人を出さず、安全に全員揃って山頂まで行くんだということに気を遣っていました。誰かが「怖い」と言えば、「怖かったら一回止まっちゃおう。止まって深呼吸して、ゆっくりゆっくり足を着きながら……、そうそう、そう、ほーら下りられた」というふうにね。そんなことを繰り返しているうちに、山のなかを進むためのテクニックが整理されてきて、"足ばたばたトライアル"と名づけた人もいました。最終的には、そこから"二輪二足"という言葉が生まれて、SEROWのマウンテントレッキングの代名詞ともなるわけです。
石井:そのツアーには、デザイナーや電装関係のスタッフも連れて行かれた。
近藤:広報とか宣伝の人たちもね。「SEROWの広告は素晴らしい」とよく言われましたけど、一緒に仕事をするみなさんがその世界を自分で体験して、それぞれの役割のなかで100%生かしてくれたからこそ得られた評価だと思います。もっと言うと、このツアーは後にSEROWトレッキングパーティーというイベントにスタイルを変えて、一般のお客さんにも味わっていただきました。私たちも何度か招かれて、オーナーの人たちと一緒に走りましたよ。
これまでSEROWを育ててくれた人々に感謝
鈴木:最初の評価に出かけるとき、試作車だけでなくXT200やDT200の生産車も持ち込んでいたんですが、実際に急な坂を登ってみると、エンジンが200ccではちょっと非力な感じがしたんです。それで何種類かのエンジンを検討し、わずかな差ですが、いろいろな面でもっともバランスのいい225cc(実質223cc)に落ち着いた。
石井:車体を作る仕事は、大雑把に言ってしまうとシートを低くスリムにする、すべての部品をコンパクトにまとめていく、ということに集約されます。細かいところではいろいろありますけど、とにかく低く・細く・軽く、をテーマに突き詰めていく感じでした。
鈴木:簡単にそういうけど、石井さんはずいぶん苦労してたじゃないですか。キックアームを収めるため、右側のフートレストにU字型のパーツを作って付けたり……。
石井:ああ、あれは確かに。もうどうしようもなくて、けっこう強引な力技だったような気がするなあ(笑)。
近藤:初期型ではセルを付けませんでしたけど、本当は開発の途中で担当の役員から「セルをつけなさい」と指示が出ていたんですよ。「このままでも十分にシングルヒットの力はある。でもセルが付いたら3塁打だ」ってね。でもいったん見送って、その後のモデルチェンジで付けたら、3塁打どころかホームラン。さすが、先見の明でした(笑)。初期型にセルを付けなかったのは軽量化のためで、その代わりデコンプにはこだわったよね。
鈴木:あの機構はセミオートデコンプと呼ばれるものなんですが、近藤さんから「とにかく掛かりやすいもの」と言われたので、ずいぶん試行錯誤をした記憶があります。それから、後でわかってきたことですが、近藤さんにはもうひとつ狙いがあったでしょう。
近藤:デコンプを引きながらの減速ね。ほら、落ち葉が積もったような長い下り坂だと、全然グリップしないじゃない。エンジンブレーキでさえリアがロックしちゃう、そういうとき、ギアをローに入れたままデコンプを引くと、圧縮が下がってスムーズに減速できるんです。これはガレ場だったり低ミュー路を走るとき、非常にありがたい。
鈴木:そういう使い方を想定すると、耐久性を十分確保しておかなきゃいけない。一度終わったと思ったら、またそっちの仕事ができて大変でした。でも、そんなことが積み重なって今のSEROWがあるんです。
ところで話は変わりますが、私の息子が免許を取って初めて選んだバイクが、実はSEROWだったんです。
石井:ほう、いい話だ。
鈴木:今は、以前転んで壊れたまま家に置いてあるんですけど、それを少しずつ直して自分で乗ろうかと思ってるんです。
石井:自分の子どものようなSEROWに息子が乗り、それをまた自分が引き継ぐ……。うーん、開発者冥利に尽きるね!
近藤:誕生から20年、成人式というタイミングでフルモデルチェンジし、次世代のSEROW250に引き継ぐことができた。こんなに幸せなことはありません。
石井:私たちは初期型を作って次の仕事に移ってしまいましたが、後に続く人たちのおかげでこんなにも長い間、しっかりとSEROWブランドが守られてきた。そのことに、心から感謝したいと思います。
※このページのプロフィール、および記事内容は、2005年4月の取材によるものです。